「怜司さん……」

その夜、遅くに帰宅した夫の姿を見て、紗良は思わず声を漏らした。
玄関に立つ怜司は、淡い光に照らされ、いつも以上に整った横顔をしている。だが、そこに安堵よりも不安が重なるのはなぜだろう。

「まだ起きていたのか。眠れなかった?」
「……ええ」

怜司が上着を執事に渡す間、紗良は彼の表情を盗み見る。
ネクタイを外す仕草、額に浮かぶ薄い汗――まるで誰かと過ごした熱を隠すように思えてしまう。

「今日は会食が長引いてね。すぐにシャワーを浴びてくる」
「……どなたと?」

気づけば、問いが口をついていた。
怜司は一瞬、動きを止め、それから柔らかく笑った。
「取引先の重役たちとだよ。どうした?」

「……いえ、別に」

胸の奥でざわめきが広がる。
どうして、すぐに信じられないのだろう。
彼の言葉を疑うなんて、愛しているのに。



翌日。
昼下がりの街で偶然、夫の秘書に出会った。
「奥さま、いつもお世話になっております」
「こちらこそ……怜司さんは、今日は?」
「本日は神宮寺グループとの打ち合わせで――」

その名を耳にした瞬間、紗良の心臓が強く跳ねた。
やはり……玲奈。

秘書は何も気づかず、にこやかに去っていった。
残された紗良は、街角で立ち尽くし、冷たい風に髪を乱される。

(また……玲奈さまと一緒にいるのね)

たとえ仕事であっても、噂と結びついてしまう。
そして、あの微笑みを自分だけのものだと信じられなくなる。



その夜、ダイニングに二人分の料理を並べても、怜司は帰らなかった。
ワインの栓を抜いたまま、キャンドルの炎が揺れている。
紗良はグラスを手に取り、ひとり口元へ運んだ。

「私のことを……本当に、愛してる?」

声に出した瞬間、涙が頬を伝った。
信じたい。信じていたい。
けれど、甘い噂の影は、静かに彼女の心を覆い尽くしていくのだった。