春の兆しが見え始めたころ。
社交界の昼下がりのティーサロンは、相変わらず令嬢たちの華やかな笑い声で溢れていた。
紗良も旧友に誘われ、久しぶりに顔を出していたが、胸の内は晴れなかった。

「紗良さん、ご主人は最近ますますご活躍ね」
隣に座った令嬢が、上品にカップを傾けながら微笑む。
「ええ……忙しくしているみたいです」
「そうでしょうね。だって――」

そこで声を潜めた彼女は、いたずらを含むような瞳を輝かせた。
「最近よくお見かけするのよ。鳳条社長が神宮寺家の玲奈さまとご一緒にいるところを」

――胸が、凍りついた。

「……それは、どういう意味かしら」
震えを隠し、微笑を崩さぬように努めながら尋ねる。
「もちろん、お仕事のお話でしょうけれど。お二人、とても親しげで。まるで恋人みたいに見えたって噂もあるの」

取り巻きの令嬢たちが小声で笑い合う。
甘美な噂話は、紅茶よりも彼女たちの心を満たすらしい。

「紗良さんは、心配なさらないの?」
「……怜司さんを信じていますから」

そう答えたものの、指先はカップの取っ手を強く握りしめていた。



邸宅に戻った紗良は、鏡台の前に座り、呆然と自分の顔を見つめた。
噂はただの憶測――そう言い聞かせようとするのに、心は落ち着かない。

「怜司さんが……玲奈さまと……」

その名を口にしただけで胸がざわめく。
玲奈は社交界でも評判の華やかな令嬢。怜司の隣に並んでも絵になる女性だ。

その夜、帰宅した夫に思わず問いかけそうになった。
けれど、口を開く前に彼の疲れた表情を見て、言葉が喉に貼りついた。

「……おかえりなさい」
「ただいま。遅くなってすまない」

怜司は額にかかる髪を払うようにして微笑む。
その姿は、いつも通りの夫だった。

「紗良、君の顔を見ると疲れが消えるよ」

甘く囁かれる言葉に、心が揺れる。
――信じたい。信じていたい。
けれど、耳に残る令嬢たちの噂が、冷たい棘となって突き刺さる。



数日後。
紗良は偶然、旧知の友人からも同じ話を耳にした。

「玲奈さまと鳳条社長が、銀座のレストランにご一緒だったって」
「親しげで、とてもビジネスの関係とは思えなかったそうよ」

否定しようとしたが、声が出なかった。
友人の視線が痛いほどに突き刺さり、紗良は笑みを作ることさえできなかった。



夜。
怜司の不在のベッドに身を横たえながら、紗良は天井を見つめていた。
何度目かの「仕事が入った」という電話。
優しい声で「君を愛している」と告げられても、今はその言葉すら信じ切れない。

「……どうして、疑ってしまうの?」

自分を責めるように呟く。
怜司は誠実な人だ。幼い頃からずっと知っている。
なのに、たった一つの噂で心が揺らぐ自分が情けない。

それでも――。
彼が別の女性と並んでいる姿を想像するだけで、胸が張り裂けそうに痛む。



次第に、紗良の瞳には怜司の笑顔さえも冷たく映るようになっていった。
「君を愛している」
そう告げられるたびに、心の奥で小さな声が囁く。

――本当に? その言葉は私だけに向けられているの?

夜の闇に沈む寝室で、紗良は枕を濡らしながら、答えの出ない問いを繰り返すのだった。