翌朝。まだ外は薄暗く、邸宅の廊下には冷たい空気が漂っていた。
紗良が目を覚ましたとき、隣にあるはずの夫の気配はすでになかった。シーツはひんやりとしていて、彼が夜明け前に出ていったことを物語っている。
「怜司さん……」
寂しさを押し隠すように呟き、ベッドサイドの時計を見る。午前五時。
彼の仕事が多忙であることはわかっていた。けれど、せめて顔を見て「行ってらっしゃい」と伝えたかった。
それからの日々、怜司の帰宅は徐々に減っていった。
最初は「今日は遅くなる」という電話が夜の九時に入り、零時を過ぎてから疲れた顔で戻ってくる。
けれど、次第にその「遅くなる」が「帰れない」に変わり、電話一本で済まされる夜が続くようになった。
「……大丈夫。怜司さんは忙しいだけ。社長なんだから仕方がない」
暖炉の前で一人、カップに注いだ紅茶を見つめながら紗良は自分に言い聞かせる。
電話越しの声は相変わらず優しかった。
『紗良、心配しなくていい。君を愛しているよ』
その言葉に何度も救われた。
だが、心のどこかに小さな空洞が生まれていく。
彼の温もりに包まれて眠ることも、何気ない会話で笑い合うことも、日常から少しずつ削り取られていた。
ある晩、珍しく怜司からの電話が鳴った。
「紗良、今日は急な会合が入って、帰れそうにない」
「……そうなの?」
「ごめん。必ず埋め合わせをするから」
声は誠実そのものだった。
それでも、受話器を置いた後の静寂が胸に堪える。
邸宅の広すぎるリビングは、夫婦の不在をことさら際立たせた。
銀のカトラリーが並ぶ長いダイニングテーブルには、紗良のためだけに用意された一人分の夕食が置かれている。
食欲は湧かず、フォークを握ったまま時が止まる。
「……本当に、忙しいだけよね?」
呟きは誰に届くこともなく、豪奢なシャンデリアの下で虚しく響いた。
数日後、実家の西園寺邸を訪れた紗良は、母の穏やかな笑顔に迎えられた。
「紗良、顔色が悪いわ。大丈夫?」
「ええ……少し、疲れているだけ」
無理に笑顔を作る娘を、母は心配そうに見つめる。
「怜司さんは、変わりない?」
「とても……忙しいの。社長業だから、仕方がないわ」
そう答えながらも、胸の奥にわずかな棘が刺さる。
“忙しいから仕方がない”――何度も繰り返すその言葉は、いつの間にか自分自身を誤魔化す呪文のようになっていた。
その夜、邸宅に戻った紗良は、リビングに灯った一つの明かりに足を止めた。
ソファに腰かけていた怜司が、スーツ姿のまま疲れた表情で顔を上げる。
「……帰ってきてたのね!」
思わず駆け寄る紗良に、怜司は微笑を浮かべた。
「驚いた? 今日は少し早く切り上げられた」
安堵と喜びが胸に広がる。
「お夕食……まだ少し温め直せば食べられるわ」
「いや、君と一緒に食卓を囲めれば十分だ」
二人で食卓につき、久しぶりに交わす会話。
ワインのグラスを傾けながら、怜司は穏やかな表情で言った。
「紗良。無理をしていないか?」
「私? 大丈夫よ」
「本当に? 君は何でも抱え込むから……」
心配そうな眼差しに胸が熱くなる。
けれど、その夜も彼は深夜には再び外出していった。
「急な呼び出しだ。すぐ戻る」
そう告げて。
玄関の扉が閉まる音を聞きながら、紗良はふと胸騒ぎを覚えた。
彼の背中が遠ざかっていくたび、心の奥で何かが少しずつ崩れていくような気がした。
それでも――信じたい。
怜司はきっと、私を愛している。
そうでなければ、あの優しい言葉も、抱きしめてくれた腕の温もりも、全て幻になってしまうから。
だから紗良は、今夜も独りきりのベッドで目を閉じ、受話器越しに聞いた彼の声を必死に思い出すのだった。
紗良が目を覚ましたとき、隣にあるはずの夫の気配はすでになかった。シーツはひんやりとしていて、彼が夜明け前に出ていったことを物語っている。
「怜司さん……」
寂しさを押し隠すように呟き、ベッドサイドの時計を見る。午前五時。
彼の仕事が多忙であることはわかっていた。けれど、せめて顔を見て「行ってらっしゃい」と伝えたかった。
それからの日々、怜司の帰宅は徐々に減っていった。
最初は「今日は遅くなる」という電話が夜の九時に入り、零時を過ぎてから疲れた顔で戻ってくる。
けれど、次第にその「遅くなる」が「帰れない」に変わり、電話一本で済まされる夜が続くようになった。
「……大丈夫。怜司さんは忙しいだけ。社長なんだから仕方がない」
暖炉の前で一人、カップに注いだ紅茶を見つめながら紗良は自分に言い聞かせる。
電話越しの声は相変わらず優しかった。
『紗良、心配しなくていい。君を愛しているよ』
その言葉に何度も救われた。
だが、心のどこかに小さな空洞が生まれていく。
彼の温もりに包まれて眠ることも、何気ない会話で笑い合うことも、日常から少しずつ削り取られていた。
ある晩、珍しく怜司からの電話が鳴った。
「紗良、今日は急な会合が入って、帰れそうにない」
「……そうなの?」
「ごめん。必ず埋め合わせをするから」
声は誠実そのものだった。
それでも、受話器を置いた後の静寂が胸に堪える。
邸宅の広すぎるリビングは、夫婦の不在をことさら際立たせた。
銀のカトラリーが並ぶ長いダイニングテーブルには、紗良のためだけに用意された一人分の夕食が置かれている。
食欲は湧かず、フォークを握ったまま時が止まる。
「……本当に、忙しいだけよね?」
呟きは誰に届くこともなく、豪奢なシャンデリアの下で虚しく響いた。
数日後、実家の西園寺邸を訪れた紗良は、母の穏やかな笑顔に迎えられた。
「紗良、顔色が悪いわ。大丈夫?」
「ええ……少し、疲れているだけ」
無理に笑顔を作る娘を、母は心配そうに見つめる。
「怜司さんは、変わりない?」
「とても……忙しいの。社長業だから、仕方がないわ」
そう答えながらも、胸の奥にわずかな棘が刺さる。
“忙しいから仕方がない”――何度も繰り返すその言葉は、いつの間にか自分自身を誤魔化す呪文のようになっていた。
その夜、邸宅に戻った紗良は、リビングに灯った一つの明かりに足を止めた。
ソファに腰かけていた怜司が、スーツ姿のまま疲れた表情で顔を上げる。
「……帰ってきてたのね!」
思わず駆け寄る紗良に、怜司は微笑を浮かべた。
「驚いた? 今日は少し早く切り上げられた」
安堵と喜びが胸に広がる。
「お夕食……まだ少し温め直せば食べられるわ」
「いや、君と一緒に食卓を囲めれば十分だ」
二人で食卓につき、久しぶりに交わす会話。
ワインのグラスを傾けながら、怜司は穏やかな表情で言った。
「紗良。無理をしていないか?」
「私? 大丈夫よ」
「本当に? 君は何でも抱え込むから……」
心配そうな眼差しに胸が熱くなる。
けれど、その夜も彼は深夜には再び外出していった。
「急な呼び出しだ。すぐ戻る」
そう告げて。
玄関の扉が閉まる音を聞きながら、紗良はふと胸騒ぎを覚えた。
彼の背中が遠ざかっていくたび、心の奥で何かが少しずつ崩れていくような気がした。
それでも――信じたい。
怜司はきっと、私を愛している。
そうでなければ、あの優しい言葉も、抱きしめてくれた腕の温もりも、全て幻になってしまうから。
だから紗良は、今夜も独りきりのベッドで目を閉じ、受話器越しに聞いた彼の声を必死に思い出すのだった。

