「……こんにちは」
僕は、良いことも悪いことも無かった今日を締め括るように、そう挨拶した。
「こんにちは。今日は月が見えなさそうで、少し寂しいです」
曇り空を見つめて、そう返した彼女。
窓から見える景色は確かにほの暗く、月の姿は見えなかった。
「……そ、そうですね。 五日後は満月なので、晴れると良いですね」
「えぇ。 月には愛着があるから、見えるだけで嬉しいのですが。
……もともと美しい月も、満月のときの壮麗さは、格別ですから」
「―――……確かに、月は綺麗ですよね」
「へっ……五木さん、今、なんて……」
「……あっ……!」
何も考えず、その言葉を口にしてしまった。
―――我君を愛す。
この時ばかりは、明治の文豪・夏目漱石を恨む。
「今のは、えっと……忘れてもらえませんか……」
「ぁ……はい……」
「ごめんなさい、急に変なこと言って」
「いえ。誰にでもミスはありますし……、おかしくないです」
だから大丈夫ですよと、綺麗な顔を傾げて言った。
あざといポーズでも彼女がやると天然ぽくって、なぜだかクールさを引き立てている。
「さようなら」
「っふぁ……さようなら」
声を掛けると、眠そうに首をもたげていた彼女がこちらを見つめた。
普段の冷静さや大人っぽさよりも、幼さが際立つその瞳に背を向けて、電車を降りた。
薄いライトの明かりのもと宿題を出すと、カチカチとシャーペンをノックする。
机に向かって、時おり手を止めながらもノートを書き進めていった。
「……もう、こんな時間……」


