光を魅せてくれた人。

「なぁに。何か思うところがあるんじゃないの……疑っているとか」

涼やかな声に向かい、首を横に振る。
「疑いません」
その反応に、目を丸くした彼女。

「どうして」
どうして、って……?
「どうして疑わないの。大抵の人は疑うわ……って、ごめんなさい。
疑ってほしいわけじゃなくて。
エスパーだとか、読心術とか、笑う人が多いから、それに慣れてしまって」


「笑いません。だって凄いことだから。少しでも倫理的であれば、信用します」
間髪を入れずそう言った。

そして、 少し驚きの滲んだ、彼女の冷めた瞳の中に自分が居ることに……
彼女の素晴らしい脳内に自分が入っていることに、少しの恥ずかしみを覚えた。


「そう……疑われないというのも、少しいいのかな……ありがとう。
って……ペラペラと、ごめんなさい。
祖母の病院に行くのに、慣れていなくて。降りる駅もいつもと違うから不安だったの」

「はぁ……」
それが、どうしたんだろう……。


「でも、貴方のお陰で緊張がほぐれた気がするわ。ありがとう、五木さん」

「っ……え……名前、どうして知って……」
「知られたくないなら、次から名札を閉まっておくといいんじゃない」
ふっと微笑んだ彼女から目を逸らせず、
彼女が再び視線を足元に戻すまでずっと、彼女の顔を見つめていた。





「あの」

僕がさっきのように お名前は、と口に出すことは無かった。

「いない……」
何駅過ぎたことだろう。
考えてみれば当たり前だ。
二言三言 言葉を交わしただけの相手に『さようなら』なんて言う方が稀だろう。

当たり前だけど。



「貴女は、誰なんですか」


無意識のうちに口をついて出た言葉。
そこにいるはずのない相手に向けた単語は宙を彷徨い、消えていった。


最寄り駅の名前。
それがアナウンスで告げられた頃、自然と俯いていたことに気がつく。
話せず、残念だったのだと……今更に理解し、未熟さを思い知ったような気がした。


「おかえりなさい」
母親の声に小さく返すと、手を洗った後 部屋に入る。


「あの人は、どこの、誰だったんだろう」
誰も聞いていない、答えてもくれない疑問。

もしも数学の公式が気になるならば、調べればAIが教えてくれる。
読めない漢字があれば、願わずとも振り仮名として知ることができる。

でもこれは、僕の問題。
自分で知りたい。

そんな浅はかなことを思いつつも、
この意地を張らなければ彼女のことを知れるのでは、なんて考えてしまう。


いや。

自分で完璧にこなせず他に頼るなんて……―――弱さの象徴、一生の恥だ。

なんとかして自分で探そうと決意して、布団に座り込んだ。




そうだ……勉強、予習をしておかないと。

シャーペンをノックし、開いたノートにミリ単位の字を書き込み続ける。
そうしているうちに気が紛れて、少しずつ好奇心が薄れていった。
……だって、どうしようもないしな……いつか、会えるだろう。


「いってきます」
その一言がなんとも気だるくて、小さな声で少しだけ告げた。

電車か……昨日も乗ったっけ……そこであの子に会って……って、今日は時間に余裕がある。

乗らなくてもいいけど……乗れば、手がかりが得られるかも。



「おはようございます」


その言葉は、目の前の相手に届けられることなく、飲み込まれた。

その場にいなかった訳ではない。 けど、声に出すことは ためらわれた。


「寝てる……?」


起こす程ではないかな、と言葉を見送ったけど……実際は、その寝顔に見入ってしまっていた。

こんなに見られたら嫌だろうに、目が離せない。


川立中等学校前ー、川立中等学校前ー……

そのアナウンスを聞き、扉の前に立つ。

結局、一言も話せなかったな……少しショックだ。
安らかな表情にちょっとしたいたずら心が働き、近くで一言呟く。


「さようなら」


言ってみようと思っていた言葉。

そう告げると、短く息を漏らした彼女。


「んん……ぅ、……」

起こしたか……いや、起きてはいなさそうだけど……なんだか ごめんなさい。

申し訳なくて、自分の行動に少し後悔した。


学校の敷地に入ると“いつもの自分”になった気がして、少し安心してしまう。

「よっ、五木。今日集まりだからな、なるべく来てくれよ」


男子生徒もとい 唐澤に釘を刺され、頷く。

「もちろんです」


今日は用事がないし、勉強以外のこともやったほうがいいはずだから。

「良かった、ありがとう。頼んだよ」

あっさりと戻る唐澤に、僕に注意を促すためだけに来たのか……と彼の暇さを羨んだ。

でも結局 勉強に追われる現状は変わらず、大きく溜息を吐いた。



「以上で帰りの会を終わります。起立、礼。さようなら」

代わり映えのない挨拶に見送られ、冷めた目のまま教室を後にする。

実行委員の集まり、体育館でやるんだっけ……遠いけど、行くしかない。



「おぉ、来てくれてありがとうな、五木」

唐澤は目を輝かせ、その他は訝しげに顔をしかめ、一人はあからさまにこちらを睨んだ。


「あんた何で来たの?てか誰なのよ。そもそも、何しに来たわけ?」

いちいち質問が多い。
“答える隙を与えない”って単語の意味、こういうことなのか……。


「この集まりに参加してみないか、と誘いを受けたため参上した次第です。
改めまして僕は 五木 玲というのですが、
文化祭実行委員に人手が足りないと言われたため手を貸しに来ただけです」



「あぁそう……静かにしてなさい、話し合いの邪魔とかして中断させたら許さないわよ」

納得しているような、そうでもないような声に眉をひそめつつ、椅子に座る。


「で、文化祭のコンセプトでも決めるんだっけ?何か案出して、ほら早く」

うるさいな……口に出す人はいないけど、そんなオーラがヒシヒシと伝わってくる。


「もういいでしょう、何かいいなさい。じゃあまず あんた から。何か話して」

横暴な司会にウンザリとしたような その人は、おずおずと立ち上がる。

「皆が楽しめる文化祭がいいと思います」

別にこれでもいいんじゃないかな……なんて人たちの声が少し聞こえてくる。


「はぁ?小学生かよ。真面目に話しなよ、ふざけてるの?」

自分は何もしないのに何を偉そうに…………。


「花澤さんも何かアイディアは無いんですか?
すごく賢そうなので、いい案が出そうだなって思ったんですが」

棒読みにならないよう配慮しつつ、にこやかにそう話す。


「ふぅん。まぁ私は、学生が主役となって成長できるような文化祭……でいいと思う」

思いっきり饒舌な花澤さんにみんなが感嘆の息をもらす。

結局自分が言いたいんじゃん…………みんなもそう感じたと思う。


「それが一番いいと思います!」
「僕もそう思う」

賛成の声が相次ぐ。


「じゃあこれでいい?ならこれで話し合いは終わりで」

まんざらでもなさそうな花澤さんに呆れつつ、早めに帰れることを喜んだ。


電車に遅れたら、あの人に会えないかもしれないから。

帰る支度を始め、急いで戸を開けると、小さな礼をして出た。

「さようなら」

「あ、ちょ……五木……!明日も集まりあるから、来いよ!」

はい……そういうのも面倒くさくて軽く頷くと、満足したような彼に背を向けた。


遅れないようにしないと……遅れたら、電車に乗れなくて大変だから……。



「はぁ、はぁ…………」


「……だいぶ急いで来たようですが、まだ出発まで五分ありますよ」

疲れたように座席に座り込んだ僕は、冷めた視線に顔を上げた。


「こんばんは、五木さん」

「っ…………あ……こんばん、は……」

せっかく上げた顔を下に向けて、ボソボソと返事をする。


あの人だ……!

名前は分からないけど。

制服の着方、髪の綺麗さ、長く細い脚に、端正な顔立ち、涼やかな声。


どこをとっても長所になる彼女は、とても忘れられる人間ではなかった。




「あの」

声は、震えていなかっただろうか。
自分ですら分からない。

でも、あの人はこちらを向いた。


「お名前、は」


目を見開いた彼女。



「私だけ言ってないのは、フェアじゃないけど」


その透き通るような声に、耳を傾ける。




「きっと私のことなんてすぐ忘れるわ。それに、名乗らなくてもこんなにお話できているし」


教えてくれる気がなさそうな話しぶりに落胆しつつも、続きを促すようにその顔を見つめる。




「名前を知らないほうが、ロマンチックってものでしょう?」

いたずらっ子のような笑みに、心臓が大きく跳ねた。


「はぁ……」

それでも納得できたわけではなく、残念さは残ったけど……こんな笑顔には逆らえない。



結局それきりで途絶えた会話は後味が悪く、どちらからともなく視線をそらした。

多分、僕からだと思うけど。



目的の駅の名がアナウンスされる。


あの人は、まだいる。

昨日降りるのが早かったのは、イレギュラーだったんだ……。



「さようなら……また明日、お会いしましょう」

虚空を見つめる彼女に、声を掛ける。


「あぁ……さようなら、五木さん」

また明日……なんて言葉を返してくれることはなく、こちらに向けられたのは涼やかな声。


また明日、会えることはないのかな……。

そんな疑問を抱きつつ、翌日も電車に乗ってしまうんだ。


「五木さん、おはようございます」

いい声、と表現するのだろうか。

本当にいつ聞いても大人っぽく透き通り、高すぎず低すぎない美しい声。


こんな声に返答して良いものか、いちいち迷ってしまう。


「おはようございます」

それでも欲には抗えず、昨日と同じく短い返事が精一杯の返しだった。


いい天気ですね。昨日は眠れましたか、なんて馴れ馴れしすぎるし……。

電車の窓から、ちょうど月が綺麗に見えた。



“月が綺麗ですね”



夏目漱石が訳した言葉。


我君を愛す。

I love you。


なんでこんなこと思ったんだろう…………別に、好きな相手がいるとかじゃないのに……。


あの人は、ただ、“綺麗な人”“興味を惹かれた人”。

それだけ、なのに……。


「川立中等学校前ー、川立―――……」

すぐに降車しないと迷惑だと分かっていて、だけど、彼女に声をかけてしまう。


「さようなら」

驚いた表情は一瞬。すぐに目を細めて、微笑を返される。


「さようなら」

可愛い、綺麗。

どちらでも表現できない美しさ。


尊い、なんて単語が、初めて頭の中に浮かんで……
そんな気持ちの悪いことを考えた自分に、寒気がした。



「よっ、五木。覚えてるよな?」

「……集まりの、ことですよね」

どれだけ暇なんだ、この人……。

底抜けに明るい唐澤にゲンナリとした表情で目を細める。


「言われなくても、行きますよ」

「まぁそうだよな、五木だもんな……」

僕のイメージってなんなんだろう……。


そう思いながら、下駄箱に靴をしまう。


下駄箱を、靴箱、と世間は呼ぶ。シューズボックスなんてハイカラな呼び方もある。

真新しい呼び名には慣れない……。

こんな性格が僕のイメージに繋がったのかな……僕は、このままでもいいんだけど。

冷たい目で自分の上履きを見つめる。


「あいつシューズ睨んでるぞ……変わってるな……」

その声に我に返り、走らない程度に階段を駆け上る。


授業前には、予習をしておきたい……。




「五木だ……あいつ、なんかあれだろ?……ガリ勉」

「俺たちのこと見下してる感じするよなー……まぁ、マジで賢いからしょーがないけど」


聞こえないわけない。

悪口、陰口。

そんな類のもの、何十回何百回と聞いた。

分かってる。
だって、人とコミュニケーションを取れない人は遠くに押しやられるだけだから。


教室の扉を静かに開ける。

誰も反応しないことに、当たり前だ……と思いつつ、落胆してしまう。




僕の言葉に反応してくれたのは、彼女だけだ。


目を伏せた僕の近くで、夏を祝福するように、緑に色づいた葉が揺れていた。