その日も、私は無意識に拓也を避けていた。
 資料を届けるべきタイミングを遅らせ、席にいない時間を狙って机に置く。
 視線が合いそうになれば、すぐに逸らす。
 ――まるで、逃げることだけが自分を守る術のように。

 けれど、逃げ続けることはできなかった。

「……片山」

 帰り際、エレベーターホールで彼に呼び止められた。
 その声は低く、逃げ場を与えない響きを持っていた。

「また避けるつもりか?」
「……そんなつもりじゃ」
「嘘だ」

 拓也は一歩踏み込み、私の肩を掴む。
 強い力に驚き、息が詰まった。
 その瞳は鋭く、それでいて必死に揺れている。

「どうして俺から逃げる? 俺の気持ちを聞いたはずだ」
「……信じられないんです」
「まだ由梨のことを気にしているのか」

 言葉に詰まる。
 彼は深く息を吐き、私を真っ直ぐに見つめた。

「何度でも言う。俺は、由梨を愛したことは一度もない。好きなのは――お前だけだ」

 胸の奥が熱くなる。
 だけど、怖かった。
 信じた瞬間に、また裏切られる気がして。

「……でも、私……」

 声が震え、涙が滲む。
 その瞬間、拓也は私を強く抱きしめた。

「逃げてもいい。怖いなら拒んでもいい。……でも俺は、もうお前を手放さない」

 低く熱を帯びた声が耳元に響く。
 彼の胸の鼓動が、私を締めつけるように伝わってきた。

「紗奈……俺から、逃げられない」

 涙が溢れた。
 それは拒絶の涙ではなく、心の奥でようやくほどけた糸が零した涙だった。

 私は彼の胸に顔を埋めながら、小さく震える声で囁いた。

「……どうして、今まで言ってくれなかったの」

 問いかけに、彼は苦く笑った。
 けれどその笑みは、どこまでも優しくて切なかった。