残業を終え、人気のなくなったオフィスに静寂が訪れていた。
 蛍光灯の白い光が、机に散らばる資料を淡く照らしている。
 私は最後の書類をファイルに閉じ、帰ろうとした。

「……片山」

 背後から呼びかけられ、振り向いた。
 そこに立っていたのは拓也だった。
 黒曜石のような瞳が、まっすぐに私を見つめている。

「少し……話がある。今夜、時間をもらえるか」
「……はい」

 言葉を選ぶような口調。
 胸の鼓動が早くなるのを感じながら、私は頷いた。



 二人きりの会議室。
 窓の外には夜景が広がり、街の光がガラスに反射している。
 拓也は机の端に手を置き、しばらく沈黙したあと、低い声で切り出した。

「……ずっと言えなかったことがある」
「……」

 喉が渇き、声が出ない。
 拓也の表情は真剣そのもので、私の心臓は痛いほどに打ち続ける。

「大学の頃から――」

 その瞬間。
 ドアが勢いよく開いた。

「拓也くん!」

 由梨が駆け込んでくる。
 高いヒールの音が硬い床に響き渡った。

「こんなところにいたのね。探したのよ」
「……由梨」

 彼の瞳に苛立ちが宿る。
 けれど由梨は気にする様子もなく、私を一瞥してから彼の腕に絡みついた。

「帰りましょう? 私、ずっと待ってたの」

 胸が強く締めつけられる。
 ――やっぱり。
 私は、拓也にとって何者でもない。

「……すみません。もう、帰ります」

 俯いたまま立ち上がり、会議室を後にした。
 背後で拓也が私の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、振り返ることはできなかった。

 夜風が吹き込むエントランスに出ると、涙が止まらなくなった。
 あの一言を聞きたかったのに。
 あと少しで届きそうだったのに。

 ――私は、また自分から背を向けてしまった。