別居の言葉を口にした夜から、玲奈と透真の生活は本当に距離を持ち始めた。
 同じ屋敷にいながら、食事の時間を合わせることもなく、言葉を交わすことも減った。
 必要最低限の会話さえも、冷えた空気に呑み込まれていく。

 それでも、玲奈の胸にはわずかな決意が芽生えていた。
 ――せめて、自分の存在を無駄にしたくない。

 父に与えられたデパートの化粧品企画の仕事は、玲奈にとって唯一の居場所になりつつあった。



 ある日の会議で、玲奈は試作品のフレグランスを前に、勇気を持って発言した。

「この香り、確かに華やかですが……つける人によっては強すぎるかもしれません。
 もっと“その人自身の色”を引き出せるような調合をすれば、幅広いお客様に届くのではないでしょうか」

 最初はざわめいた会議室。
 だが、担当者の一人が頷いた。

「……確かに、その視点は大事だ」

 別のスタッフも口を開いた。
「御園さんの意見を取り入れて、再度試作してみましょう」

 玲奈は思わず胸に手を当てた。
 自分の声が、確かに誰かに届いている。
 それは、ガラスの箱に閉じ込められていた自分が、少しずつ外に出る感覚だった。



 会議を終えた帰り道。
 男性スタッフの一人が、エレベーターの前で玲奈に話しかけた。

「御園さんの意見、すごく参考になりました。実は僕も、香りの持続性については疑問だったんです」

 穏やかな笑顔に、玲奈も思わず笑みを返す。
「……ありがとうございます。私なんてまだまだですが、そう言っていただけると励みになります」

 二人の間に自然な会話が生まれる。
 それは玲奈にとって、久しく味わったことのない温かさだった。



 だが、その光景を見ていた者がいた。
 透真だった。

 廊下の奥から二人を目にした瞬間、胸の奥にざらついた感情が広がる。
 玲奈が他の男と笑みを交わしている――。
 それは、理屈ではなく本能的な嫉妬を呼び起こした。

(……何をしているんだ、俺は)

 視線を逸らすことができず、ただその場に立ち尽くす。
 けれど声をかけることはできない。
 冷徹な仮面の奥で、透真の心は大きく揺れていた。



 その夜。
 屋敷に戻った玲奈は、廊下で透真とすれ違った。
 ほんの数秒、互いの瞳が交錯する。

 玲奈は口を開きかけたが、言葉は喉で止まる。
 透真も同じだった。
 結局、二人は背を向けて歩き去る。

 だが、すれ違った瞬間――透真の袖口からあの香りが漂った。
 玲奈が研究室で感じた、心を揺さぶる香り。

(あの香りは……誰のために作られたもの?)

 疑念と渇望が胸の奥で絡み合う。
 “契約の花嫁”であるはずの自分が、彼の本当の色を知りたいと願っている――。

 それは、もう認めざるを得ない感情だった。



 一方で透真もまた、自室で窓辺に立ち尽くしていた。
 グラスに揺れる赤いワインを見つめながら、先ほどの玲奈の笑顔を思い出す。

 それは、自分に向けられたことのない表情。
 柔らかく、温かく、誰かを安心させる笑顔。

(俺は……彼女の何を知っている?)

 ガラスの仮面に隠された玲奈の“本当の色”に、触れたことがあっただろうか。

 嫉妬と後悔の炎が、透真の胸を静かに焼いていた。