夜会から数日後。
 御園玲奈と篠宮透真の生活は、表面上は何も変わらなかった。

 朝になれば同じ屋敷から出て、夜になれば同じ屋敷に帰る。
 だが、同じ空間にいながら二人の間に言葉はほとんど交わされない。
 並んで食卓につくこともなく、透真は執務室で食事を済ませるのが常になっていた。

(私たちは、まるで見知らぬ同居人みたい……)

 大きすぎる屋敷の中、玲奈の居場所はますます小さく感じられた。



 ある朝、玲奈は透真の後ろ姿を廊下で見かけた。
 整った背中、迷いのない足取り。
 声をかけたい衝動に駆られる。

 けれど、足は動かない。
 呼び止める言葉が喉で凍りつき、そのまま彼は遠ざかっていった。

 胸の奥がじんと痛む。



 その一方で、玲奈には新しい役割が与えられていた。
 父の意向で、デパートの化粧品部門の新規企画に関わることになったのだ。

 会議に出席するたび、周囲からは「令嬢のお飾り参加」と見られているのが分かる。
 だが、玲奈は臆することなく、自分の思いを口にするようになっていた。

「この色合いは若い女性だけでなく、年齢を重ねた方にも似合うはずです。
 万人に“自分らしさ”を感じてもらえる色を提案できれば……」

 最初は戸惑っていたスタッフたちも、次第に玲奈の感性に耳を傾け始める。
 彼女がかつて鏡の前で救われた“化粧品の魔法”を、誰かに届けたい――。
 その思いが、彼女を強くしていた。



 夜。
 会議から戻った玲奈が屋敷に入ると、玄関ホールに透真の姿があった。

「遅かったな」
 低い声が響く。

 玲奈は思わず立ち止まった。
 彼が自分を待っていたのかと錯覚してしまったのだ。
 けれど次に続いた言葉は、冷ややかなものだった。

「社交の場では必ず時間を守れ。それが最低限の礼儀だ」

「……申し訳ありません」
 小さな声で返すしかなかった。

 透真の表情は相変わらず硬く、何も伝わらない。
 しかし、ほんの一瞬だけ彼の視線が玲奈の手元に落ちる。
 企画で使った資料のファイルを抱える玲奈を見て、何かを言いかけたようだった。
 だが、その唇はすぐに閉ざされた。



 寝室に戻り、窓の外を見つめながら玲奈は思った。

(どうして……こんなにも近くにいるのに、遠いんだろう)

 偽りの夫婦。
 互いに干渉せず、三年後には別れる――そう決められた関係。

 けれど、心は少しずつ勝手に動いてしまう。
 透真の香りを思い出すたび、胸が締めつけられる。
 あの香りに込められた意味を考えるたび、息が苦しくなる。



 一方、透真もまた、自室で窓辺に立っていた。
 夜風に揺れるカーテン越しに、香水の瓶を手に取る。

 指先でそのガラスをなぞり、瞼を閉じる。
 そこに浮かぶのは――披露宴で見た、玲奈の揺れる瞳だった。

(俺は……何をしているんだ)

 誰にも聞こえない独白が、静かな部屋に溶けていった。