ホテルの大広間は、光の海だった。
 天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが、幾千もの粒子のように煌めき、壁際に並べられた白百合の香りがほのかに漂っている。
 招待客は国内外の大企業の重役やメディア関係者、著名なモデルたち。
 無数の視線が、純白のドレスに身を包んだ御園玲奈へと注がれた。

 玲奈は思わず背筋を強張らせる。
 こんな華やかな舞台に立ったことは一度もない。
 けれど、隣には篠宮透真がいる。
 彼の手に軽く導かれながら、一歩ずつバージンロードを歩く。

 その手は冷たく、体温を分け合うことはなかった。
 透真の視線は前方の招待客へと向けられ、玲奈に注がれることはない。

「笑顔を忘れないように」
 耳元に落とされた低い声。
 玲奈は慌てて口角を上げる。
 けれど、それは心のどこにも届かない、作り物の笑みだった。



 披露宴が始まると、透真は完璧な“理想の夫”を演じてみせた。
 テーブルを回れば、誰にでも優雅な笑顔を向け、社交辞令を滑らかに口にする。
 腰にそっと手を添える仕草や、肩を支える動作も、まるで舞台の一部。
 それはカメラのフラッシュに合わせて計算された振る舞いにすぎなかった。

(私たちは……仮面の夫婦)

 胸の奥が静かに冷えていく。



「新郎新婦、どうぞ皆さまに愛の証を!」
 司会者の声が弾み、会場が拍手と声援に包まれる。

 透真はわずかに顔を近づけ、玲奈の頬に軽く唇を触れさせた。
 その瞬間、会場は割れるような歓声に包まれる。

 だが、玲奈の心は空っぽだった。
 唇に残るのは温もりではなく、氷のような冷たさ。



 乾杯が終わり、玲奈はグラスを持ってゲストに挨拶をして回った。
 その途中で、ふと耳に入った囁きが胸を突き刺す。

「やっぱり篠宮社長、まだ美咲さんと繋がっているのよ」
「見た? あの香り……きっと彼女のために調合されたんじゃない?」

 笑みを崩さないように必死で取り繕う。
 だが心臓は早鐘を打ち、手の中のグラスがわずかに震えた。

(美咲……?)

 その名を知っている。
 ――高遠美咲。業界でも有名なモデルで、透真の“かつての恋人”と噂される女性。



 その人物が現れるのに、時間はかからなかった。

 会場の後方、スポットライトを浴びながら現れたのは、黒いイブニングドレスに身を包んだ女。
 艶やかな黒髪を肩に流し、真紅のルージュを引いた唇。
 その一歩で、会場の空気が張りつめる。

「おめでとう、透真」

 祝辞に立った美咲は、柔らかな笑顔を見せる。
 けれど、その視線が玲奈に向けられた瞬間、わずかに挑むような光を宿した。

「あなたが幸せそうで良かった」

 含みのある言葉に、玲奈の胸がざわめいた。



 披露宴の終盤、美咲は人々の視線をものともせず玲奈へと歩み寄ってきた。
 立ち止まると、わざとゆっくりと微笑み、玲奈の耳元に顔を寄せる。

「……でも、彼はあの香りを忘れられないみたい」

 吐息混じりの囁きが、冷たい針のように突き刺さる。
 玲奈は瞬きを忘れたまま、美咲の背中を見送った。

(あの香り……?)

 すぐに脳裏に浮かんだのは、自分が愛用するディア・グレイスのフレグランス。
 けれど、美咲の言葉が意味するものは分からなかった。



 披露宴が終わり、控え室へ戻った二人。
 華やかな笑顔の仮面を外した玲奈は、意を決して口を開く。

「あの……美咲さんとは、仲が良いんですか?」

 透真はネクタイを緩める手を止めずに答えた。
「仕事関係だ。それ以上は詮索するな」

 冷ややかな声。
 胸の奥がきゅっと縮む。

「……はい」
 それ以上は言えなかった。

 透真は感情を映さない鏡のような瞳を向け、一瞥しただけで視線を外した。



 夜。
 迎えの車に乗り込んだ二人は、隣り合いながらも沈黙を保っていた。
 透真はタブレットに視線を落とし、玲奈を見ようともしない。

 窓の外に流れる都会の夜景。
 その煌めきは美しくも、玲奈には遠い世界の光にしか思えなかった。

 そのとき、透真の袖口から漂った香りに、心臓が跳ねる。
 ――あの夜、初めて出会ったときと同じ香り。
 「ディア・グレイス」の新製品。

 冷たい態度とは裏腹に、温かく胸を締め付ける香りだった。

(どうして、この香りが……)

 答えはまだ分からない。
 ただ、不安と疑念と、説明できない感情だけが、玲奈の心を揺らしていた。