梅雨空が晴れた午後、玲奈はデパート本社での会議に出席していた。
 父の代理としてブランド部門の新企画に顔を出すのは初めてのことだった。
 緊張の中で意見を交わしながらも、玲奈の耳には別の囁きが残っていた。

――「この香りは私との記憶」
――「あなたには抱えきれない」

 透真を信じたい。
 けれど、その言葉が棘のように突き刺さり、傷口は広がっていた。



 会議が終わり、廊下を歩く玲奈の前に、また美咲が立ちはだかった。
 その笑みは、勝者の余裕を湛えている。

「玲奈さん……少しお時間いただける?」

 有無を言わせぬ調子で案内されたのは、ホテルのラウンジだった。
 豪奢な内装と甘い香りが漂う中、二人きりで向かい合う。



「あなた、まだ透真を信じているの?」
 美咲の声は甘やかでありながら、冷たい刃を含んでいた。

「……私は……」

「正直に言うわ。透真と私、昔は特別な関係だった」

 玲奈の指先が震えた。
 その一言で、心臓が強く脈打つ。

「そして、今も私たちを繋ぐものがある。……あの香りよ」

 美咲は小瓶を取り出し、テーブルに置いた。
 見覚えのあるラベル――透真の研究室で調合された試作品。

「彼が作ったこの香りの原型……私と過ごした時間をイメージして生まれたの」



「嘘……」
 玲奈の声は震えていた。

「信じられないなら、本人に聞いてみればいいわ」
 美咲は唇を歪め、挑発するように笑った。
「でも、彼は絶対に本当のことを言わない。あなたを守るためにね」

「……守る?」

「ええ。透真は冷たいようで、とても優しい人。だからこそ、あなたには真実を隠すはず」

 その言葉は、玲奈の胸をさらに乱した。
 透真が嘘をついている――それが自分を守るためだとしても。



 その夜。
 屋敷に戻った玲奈は、透真と顔を合わせることなく自室に閉じこもった。
 美咲の言葉が頭の中を巡り続ける。

(透真さん……あなたは、私に本当のことを隠しているの?)

 机の上に置いた香水の瓶を見つめる。
 そこに込められた“色”は、誰のものなのか――。

 涙が頬を伝い落ちた。
 愛と疑念の狭間で、玲奈の心はますます追い詰められていく。



 一方その頃。
 透真は秘書から報告を受けていた。

「……御園様が、美咲様と密会していたという噂が広がっています」

 透真の瞳が鋭く光る。
「美咲……また余計なことを」

 その声には苛立ちと焦燥が混じっていた。
 彼の中でも、もはや隠し通すことは不可能だという予感が募っていく。