梅雨の気配が漂う午後、玲奈は実家の庭園を歩いていた。
 雨に濡れた紫陽花が咲き乱れる中、胸はまだ晴れなかった。
 透真のメモを何度も読み返しても、美咲の言葉が棘のように残っている。

(信じたい……でも、信じて裏切られるのが怖い)

 その時、背後から低い声が響いた。

「……玲奈」

 振り返れば、透真が立っていた。
 スーツの肩に雨粒が落ち、黒髪にしっとりと光が宿っている。
 その姿に、玲奈の心臓は強く打ち鳴った。



「勝手に戻って……悪かった」
 透真の声は、かすかに震えていた。

「……どうして、今さら」
 玲奈は唇を噛む。
「あなたは“契約”しか口にしなかった。私を守るためだなんて、言い訳にしか聞こえない」

 透真は一歩近づく。
「契約は……お前を守るためだった。本当だ」

「ならどうして、美咲さんと……!」
 玲奈の声は涙に濡れた。
「彼女は言ったの。“この香りは二人の記憶”だって。私はただの代用品だって」



 透真の瞳に、強い光が宿る。
「違う!」
 彼は低く叫んだ。
「香りは……お前のために作った。最初に会った夜、お前が纏っていたその色、その涙が忘れられなかった」

 玲奈は息を呑む。
 けれど、美咲の囁きが心を掴んで離さない。

「……でも、私は信じられない」
 小さな声で告げた瞬間、雨脚が強くなり、二人の間に冷たい滴が降り注ぐ。



 透真は迷わず玲奈の肩を抱いた。
 雨に濡れた体温が直に伝わる。

「信じられなくてもいい。……俺は何度でも言う。玲奈、お前しかいない」

 その声は熱を帯びていた。
 けれど玲奈の瞳からは涙が零れる。

「……怖いの。信じたら、壊れてしまいそうで」

 雨音に混じって、玲奈の嗚咽が響いた。
 透真は強く抱き寄せたまま、ただ彼女の震えを受け止めるしかなかった。



 庭園の紫陽花は雨に打たれ、色濃く咲き誇っていた。
 それはまるで、二人の心が嵐の中で揺れながらも、確かに結びつこうとしているかのようだった。