実家に戻ってから数日、玲奈はほとんど眠れなかった。
 父の屋敷は落ち着いた静けさに満ちているのに、胸の奥では嵐が吹き荒れていた。

 ――「契約は契約だ」
 ――「離したくない」
 ――「危険だ」

 透真の言葉が交互に蘇る。
 信じたかった言葉と、突き放された冷たい声。
 その狭間で揺れる心は、涙となって夜ごと溢れた。



 その頃、透真は玲奈を追うこともできず、苛立ちと後悔に苛まれていた。
 執務室にこもり、誰もいない空間で吐き出す。

「……俺は、何を守ろうとしている」

 玲奈を苦しめるだけの契約。
 美咲に揺さぶられる玲奈の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
 守りたいのに、結果的に遠ざけてしまった。

(もう一度、彼女に伝えなければ……)



 ある日。
 玲奈はデパートの打ち合わせのために実家から出ていた。
 廊下を歩くと、背後から声がした。

「玲奈さん、少しお話しできる?」

 振り返れば、美咲が立っていた。
 完璧な笑みを浮かべ、手には小さな瓶が握られている。

「透真が試作した香水よ。……知ってる? これ、私との記憶から生まれたの」

 玲奈の心臓が大きく跳ねた。
 美咲は瓶の蓋を開け、香りを漂わせる。
 それは確かに、玲奈が愛用してきた香りに似ていた。

「あなたには似合わない。透真が本当に求めているのは――」

 その囁きは玲奈の胸を鋭く刺す。
 視界が滲み、呼吸が乱れる。



 打ち合わせを終え、実家の自室に戻った玲奈は、机に突っ伏して泣いた。

(やっぱり……私なんかじゃなかったんだ)

 その時、机の引き出しから一通の封筒が目に入った。
 以前、透真がこっそり置いていったメモ。
 彼が公に見せることのない、走り書きのような文字。

《この香りは――君の涙の色を写したもの》

 震える指で紙を握りしめる。
 滲んだ涙がインクを濡らす。

(私の……ために?)

 胸の奥に、かすかな光が差した。
 だが同時に、美咲の言葉がその光を覆い隠す。

(どちらが真実なの……?)

 答えを求めて流れる涙。
 その涙こそが、玲奈にとっての「真実」だった。



 一方その夜。
 透真は屋敷の執務室で、ひとり写真立てを手にしていた。
 そこに収められているのは、発表会で香水を語る玲奈の姿。
 彼女の瞳が、どれほど真剣で美しかったか――。

 胸の奥が熱くなる。
「……もう、嘘は終わりにしよう」

 そう呟いた透真の瞳には、決意の光が宿っていた。