その夜も、屋敷の寝室には冷たい沈黙が漂っていた。
 透真と同じ屋根の下にいながら、心はどこまでも遠い。
 ガラスの瓶に映る自分の姿を見つめながら、玲奈は思った。

(このままここにいたら……私は壊れてしまう)

 胸を締めつける孤独と疑念。
 美咲の囁きは棘のように心に刺さり続けていた。



 翌朝、玲奈は父の執務室を訪ねた。

「お父さま……しばらく、実家に戻りたいのです」

 父は驚いた表情を浮かべ、そして重いため息をついた。
「玲奈……政略結婚は家を守るためのものだ。簡単に離れることはできない」

「わかっています。でも、私は……」
 玲奈の声が震える。
「私にはもう、透真さんの隣に立つ自信がありません」

 父はしばらく黙したまま、やがて頷いた。
「……少しの間なら構わない。だが軽はずみな行動は慎め。噂はすぐに広がる」

 その言葉は許可というよりも、忠告だった。



 数日後。
 玲奈は屋敷を離れる決意を固めた。
 少しの荷をまとめ、香水の瓶を手に取る。
 その香りが最後の迷いを引き止めるように胸を揺らす。

(本当は、透真さんの言葉を信じたかった……)

 けれど、疑念に覆われた心は、もはや耐えられなかった。



 その頃、透真は別の会議室で役員たちと話し合いをしていた。
 報告を聞く耳はあっても、頭の中は玲奈のことで占められていた。

(あの夜の言葉……彼女に届かなかったのか)

 苛立ちを押し殺し、会議を終えた透真は屋敷に戻った。
 しかし、そこに玲奈の姿はなかった。

「奥様は……実家に戻られました」

 侍女の報告に、透真の心臓が大きく揺れた。

「勝手に……?」
 低く呟いた声には、怒りとも焦りともつかない震えが混じっていた。



 夜。
 玲奈は実家の自室で、静かにベッドに腰を下ろしていた。
 窓の外には懐かしい庭園が広がっている。
 幼い頃から慣れ親しんだ場所なのに、心は安らがなかった。

(私は逃げただけ……? それとも、これでよかったの……?)

 答えは見つからない。
 ただ、胸に残る香りの記憶が、眠りを遠ざけていた。



 一方、透真は夜の執務室で机を叩いた。
 グラスの赤ワインが揺れ、零れ落ちる。

(……俺が突き放したからだ。彼女を遠ざけたせいで)

 怒りと後悔に揺れる心。
 その奥底で、ある決意が芽生え始めていた。