屋敷の中に冷たい沈黙が漂っていた。
 透真に「好きにしろ」と突き放された夜から、玲奈はほとんど顔を合わせていない。

 同じ屋根の下にいながら、まるで別の世界に住んでいるようだった。

(……どうして、こんなことになってしまったんだろう)

 鏡の前で化粧を落としながら、玲奈は自分に問いかける。
 ガラスの中に映るのは、どこか怯えた瞳の自分。
 それでも――「ディア・グレイス」の口紅を手に取ると、心がわずかに強くなる。

(私は……私らしくいたい。せめて、自分だけは見失わないように)



 その頃、透真は自室の執務机で香水の試作ボトルを見つめていた。
 無色透明の液体の中に、自分の感情を閉じ込めるかのように。

「……どうしてあんな言い方しかできない」

 呟きが夜に溶ける。
 玲奈が他の男と笑みを交わす姿が、何度も脳裏に浮かぶ。
 胸を焼く嫉妬と後悔。
 だが、その感情を認めれば、自分が脆くなる気がして、透真は言葉にできなかった。



 翌日、玲奈はデパートの企画チームと共に新しい香水の発表準備に追われていた。
 その場で、あるスタッフがぽつりと口にした。

「この香り……篠宮社長が自ら開発に関わっているらしいですよ」

「……え?」

 玲奈は思わず顔を上げた。
 スタッフは続ける。

「珍しいですよね。普段は経営の最前線にいて、研究にまで顔を出すなんて。
 でも、この新作は“特別な意図”があるらしくて」

 玲奈の胸がざわめいた。
 特別な意図――それは誰のために?
 美咲のためなのか、それとも……。



 その夜。
 屋敷のバルコニーで、玲奈は夜風に揺れる街を眺めていた。

 すると背後に気配がした。
 振り返ると、透真が立っていた。

 月明かりに照らされた彼の横顔は、どこか影を帯びている。
 二人の間に沈黙が落ちる。

 耐えられなくなった玲奈が口を開いた。

「……どうして、隠すんですか。美咲さんのことも、香りのことも……」

 透真の瞳が一瞬揺れた。
 だが、すぐに冷たさを装う。

「お前には関係ない」

 玲奈の胸に鋭い痛みが走る。

「……やっぱり、そうなんですね」

 声が震える。
 疑念と寂しさが混ざり合い、涙が滲む。



 透真は一歩、玲奈に近づいた。
 けれど伸ばしかけた手は途中で止まり、空を掴む。

「……お前が思っていることは、違う」

 その言葉は、まるで断片的な真実を示すようだった。
 しかし、玲奈の耳には届かない。

「違うって、何が……?」

 問いかけても、透真は答えない。
 ただ月明かりの下で視線を逸らすだけ。



 玲奈の胸の奥で、ガラスのように揺れる感情が音を立ててひび割れていく。

(この人の本当の心を、私は知ることができない……)

 だが同時に――確かに漂う香りが玲奈を惑わせる。
 甘く、切なく、胸を締めつける香り。

 その香りこそが、透真の本当の想いの輪郭なのではないか――。

 玲奈は、答えの見えない迷路に取り残されたまま、夜風に震えていた。