夜の街を見下ろす高層ホテルのエレベーターホール。
御園玲奈は、小さなクラッチバッグを強く握りしめながら、背筋を正して立っていた。
冷たい大理石の床に、ヒールの音だけが規則的に響き、その一つひとつが鼓動の早さと重なっていく。
(どうして、私が――)
今日、この場所に立つ理由は一つ。
父から告げられた政略結婚のお見合いのためだった。
相手の名は、篠宮透真。
世界的化粧品メーカー「ディア・グレイス」を率いる若き社長。
業界誌や女性誌で彼の名を見ない日はない。
「今、最も抱かれたい男」として特集されるその美貌と華やかなオーラ。
同時に「業界きってのプレイボーイ」と囁かれる、最も遠い世界の人間。
控えめで、人前に出ることを苦手としてきた玲奈にとって、彼は眩しすぎる存在だった。
創業百年を超える老舗デパートの令嬢。
その肩書きは、玲奈に「期待に応える令嬢」という役を演じさせてきた。
人前で無難に微笑み、波風を立てず、常に正しい娘であること。
けれど、それはまるで――ガラスの箱に閉じ込められることと同じだった。
どれほど光に包まれても、触れられることのない、冷たい透明な壁。
そんな玲奈にとって唯一の“魔法”があった。
それは――化粧品。
艶やかな唇を彩るリップスティック。
頬をわずかに華やがせるチーク。
そして、心までも温かくするフレグランス。
それらは、自分を縛る殻をひとときだけ破り、違う自分に変えてくれるもの。
鏡に映る自分を、少しだけ大胆に、少しだけ鮮やかにしてくれる。
とりわけ、「ディア・グレイス」の化粧品は玲奈にとって特別だった。
香りも色も、自分の内側に潜む“本当の色”を映してくれるように思えたから。
エレベーターの扉が開く。
現れたのは、完璧なスーツに身を包んだ男。
誰もが羨む整った顔立ちに、鋭い光を宿した瞳。
「御園玲奈さんですね。お待ちしておりました」
低く落ち着いた声が、静寂を切り裂く。
その瞬間、玲奈の心臓は強く跳ねた。
(この人が……篠宮透真――)
雑誌や画面で見ていたどんな写真よりも、美しく、どこか憂いを帯びていた。
世間が語る「プレイボーイ」の印象とは、あまりにかけ離れた姿。
けれど、その視線は冷ややかに玲奈を射抜き、値踏みするようでもあった。
彼の言葉が、玲奈の胸を凍りつかせる。
「――これから始まるのは、契約でしかない。
駆け引きも感情も不要です」
理解していたはずの現実が、改めて鋭い刃のように胸を抉った。
それでも、逃げることはできない。
ガラスの箱の中で生きてきた自分は、もう後戻りできなかった。
その夜、二人の偽りの婚姻は幕を開けた。
愛か、虚無か。
答えの見えない物語の扉が、静かに開かれたのだった。
御園玲奈は、小さなクラッチバッグを強く握りしめながら、背筋を正して立っていた。
冷たい大理石の床に、ヒールの音だけが規則的に響き、その一つひとつが鼓動の早さと重なっていく。
(どうして、私が――)
今日、この場所に立つ理由は一つ。
父から告げられた政略結婚のお見合いのためだった。
相手の名は、篠宮透真。
世界的化粧品メーカー「ディア・グレイス」を率いる若き社長。
業界誌や女性誌で彼の名を見ない日はない。
「今、最も抱かれたい男」として特集されるその美貌と華やかなオーラ。
同時に「業界きってのプレイボーイ」と囁かれる、最も遠い世界の人間。
控えめで、人前に出ることを苦手としてきた玲奈にとって、彼は眩しすぎる存在だった。
創業百年を超える老舗デパートの令嬢。
その肩書きは、玲奈に「期待に応える令嬢」という役を演じさせてきた。
人前で無難に微笑み、波風を立てず、常に正しい娘であること。
けれど、それはまるで――ガラスの箱に閉じ込められることと同じだった。
どれほど光に包まれても、触れられることのない、冷たい透明な壁。
そんな玲奈にとって唯一の“魔法”があった。
それは――化粧品。
艶やかな唇を彩るリップスティック。
頬をわずかに華やがせるチーク。
そして、心までも温かくするフレグランス。
それらは、自分を縛る殻をひとときだけ破り、違う自分に変えてくれるもの。
鏡に映る自分を、少しだけ大胆に、少しだけ鮮やかにしてくれる。
とりわけ、「ディア・グレイス」の化粧品は玲奈にとって特別だった。
香りも色も、自分の内側に潜む“本当の色”を映してくれるように思えたから。
エレベーターの扉が開く。
現れたのは、完璧なスーツに身を包んだ男。
誰もが羨む整った顔立ちに、鋭い光を宿した瞳。
「御園玲奈さんですね。お待ちしておりました」
低く落ち着いた声が、静寂を切り裂く。
その瞬間、玲奈の心臓は強く跳ねた。
(この人が……篠宮透真――)
雑誌や画面で見ていたどんな写真よりも、美しく、どこか憂いを帯びていた。
世間が語る「プレイボーイ」の印象とは、あまりにかけ離れた姿。
けれど、その視線は冷ややかに玲奈を射抜き、値踏みするようでもあった。
彼の言葉が、玲奈の胸を凍りつかせる。
「――これから始まるのは、契約でしかない。
駆け引きも感情も不要です」
理解していたはずの現実が、改めて鋭い刃のように胸を抉った。
それでも、逃げることはできない。
ガラスの箱の中で生きてきた自分は、もう後戻りできなかった。
その夜、二人の偽りの婚姻は幕を開けた。
愛か、虚無か。
答えの見えない物語の扉が、静かに開かれたのだった。

