「これ以上、近づくな」
 あの冷たい言葉が耳に残り、眠れぬ夜を過ごした。
 拒絶されても、まだ彼を求めてしまう自分が情けない。
 心に蓋をして、仕事に集中しようと決意したのに――。



 翌日の会議室。
 藤堂部長は普段以上に穏やかな笑顔を浮かべていた。
 的確な指示を飛ばし、周囲に安心感を与える完璧な上司の顔。

 「さすが部長、落ち着いてますよね」
 「やっぱり頼りになるなぁ」

 同僚たちの囁きを聞きながら、私は心の奥でざらつきを覚えていた。
 ――あの笑顔は、本当に彼のもの?



 資料の確認中、彼がふとこちらを見た。
 目が合った瞬間、私は小さく息を呑む。
 笑っている。けれど、その瞳の奥にあるものは――。

 「……っ」
 言葉にならない感情が胸に広がった。
 冷たさでも、優しさでもない。
 まるで、苦しみを隠すための仮面のような笑顔。



 会議後、廊下で声をかけた。
 「部長、さっきの件ですが……」
 用件を伝えるふりをして、本当は確かめたかった。

 彼は柔らかい笑顔で頷く。
 「任せるよ。西園寺さんなら大丈夫だ」

 周囲には聞こえないほどの声で囁かれたその一言に、心臓が揺れる。
 ――信じてくれている?
 それとも、突き放すための優しさ?



 「……本当は」
 思わず口をついて出た言葉を、彼が制するように視線を逸らした。

 「何も考えるな。余計なことに振り回されるな」
 表情は笑顔のまま。
 けれど、その声は苦しげに掠れていた。



 背を向けて去っていく彼を見送りながら、胸が軋む。
 「……笑わないでほしい」
 心の中で小さく呟く。

 あの笑顔が、彼の本音を隠しているとわかってしまうから。
 十年前と同じ、言葉にできない想いが、瞳の奥で揺れているから。