佐伯の優しさに救われた夜から、まだ数日しか経っていなかった。
 けれど心の奥では、蓮の拒絶の言葉が何度も響いていた。
 「俺には、君をどうこうする資格がない」

 ――その声を思い出すたび、胸が軋んだ。



 昼下がり。
 資料を抱えてエントランスに向かうと、ロビーの片隅に見慣れた姿があった。
 艶やかな笑みを浮かべた女性――蓮の元婚約者。

 「やっぱり、ここにいたのね」
 彼女は迷いもなく私の前に立ちはだかった。



 「藤堂部長の隣にいるのは、どう考えてもあなたじゃない」
 静かな声に潜む毒。
 「十年前だってそうだったじゃない。彼が選んだのは私。……あなたじゃなかった」

 胸が痛む。
 それが事実だったからこそ、反論できない。



 「なのにまた、彼の傍にいるなんて図々しいわ」
 彼女は薄く笑った。
 「あなた、知ってる? 蓮さんが今も“資格がない”って言ってるのは、私との過去を清算できていないからよ」

 その言葉に息が詰まった。
 「……そんなはず、ありません」
 必死に絞り出すと、彼女は挑発的に微笑んだ。

 「信じたいなら、信じればいい。
 でも――結局、泣くのはあなたよ」



 その瞬間。
 「西園寺さん!」
 背後から声がして、振り返ると佐伯が駆け寄ってきた。

 彼女は意味ありげな視線を蓮に向けていたが、佐伯の存在に気づくと小さく肩をすくめて立ち去った。

 「大丈夫か?」
 佐伯が真剣な瞳で私を覗き込む。

 「……ええ」
 そう答えたけれど、膝が震えていた。



 ロビーを見渡すと、少し離れた場所に蓮の姿があった。
 険しい表情で元婚約者を見送るその横顔。
 そして一瞬、私の方へ向いた瞳は、怒りと嫉妬と後悔が入り混じった色を宿していた。

 「部長……」
 小さく呟いた声は、届かないまま空気に消えていった。



 ――再び現れた元婚約者の影。
 挑発の言葉は、私の心に深い傷を残した。
 そして、その影はまた蓮の心をも揺さぶっていくのだと、直感した。