噂に翻弄され続けた日々。
 心は限界に近づいていた。

 その夜、佐伯に呼び出された。
 「……少し、歩かない?」
 優しい笑顔に導かれるように、私は静かな夜の街を並んで歩いた。



 小さなバーの片隅。
 温かい灯りと静かな音楽に包まれ、緊張がふっと解けていく。

 「無理して笑わなくていい。……君が泣きそうなの、俺はすぐわかるから」
 グラスを傾けながら、佐伯はまっすぐに言った。

 「西園寺さんは、誰かのために強がりすぎる。
 でも俺の前では、もう無理しなくていい」

 その声が、疲れ切った心に沁みた。



 夜風にあたりながら帰り道を歩くと、自然と彼の部屋の灯りが見えていた。
 「少し休んでいかない?」
 その言葉に、私は首を振れなかった。

 温かい部屋。
 ソファに腰を下ろした瞬間、張り詰めていた糸が切れたように涙が溢れた。

 「……私、どうしてこんなに弱いんでしょう」
 嗚咽混じりの声に、佐伯はそっと背を抱き寄せた。

 「弱くなんてない。君はずっと頑張ってきた。
 だから、今は俺に甘えていい」

 抱き寄せられる温もり。
 心地よさに身を委ねそうになった。



 彼の顔が近づく。
 唇が触れ合う寸前――私は、反射的に目を閉じた。

 でも、そのとき。
 脳裏に浮かんだのは、十年前の雨の夜、蓮と交わしたたった一度のキスだった。

 「……ごめんなさい」
 小さく呟き、彼の胸を押し返す。

 驚いたように佐伯が目を見開いた。
 「西園寺さん……?」



 「私……まだ、藤堂部長を忘れられない」
 震える声で告げると、佐伯の表情に痛みが走った。

 それでも彼は、すぐに優しい笑みを浮かべた。
 「謝らなくていいよ。君の気持ちは、君のものだから」

 そして静かに私の涙を拭った。
 「……でも覚えててほしい。俺はいつだって、君のそばにいる」



 寸前で止まった夜。
 佐伯の優しさに救われながらも、心は蓮に縛られている自分を突きつけられた。

 ――私は、まだ彼を愛している。