「……資格がない」
 彼がそう言った瞬間、時間が止まったように感じた。

 資格?
 それは何を意味するの――。

 「部長……どうして、そんなことを……」
 涙で霞む視界の中、必死に問いかける。



 彼は机の端に手を置き、深く息を吐いた。
 「俺は……十年前、婚約していた」
 「……知ってます。噂で聞きました」
 声が震える。

 「だが、本当は――」
 言いかけて、彼は言葉を飲み込むように唇を噛んだ。
 沈黙のあと、かすかに掠れた声が零れる。

 「……君を守れなかった。あの頃も、そして今も」



 「守れなかった……?」
 聞き返す私を見て、彼はわずかに視線を揺らした。

 「俺が婚約をしていたことで、君が……陰で何を言われていたか、知っている」
 「え……」
 胸が締めつけられる。

 十年前、私が理由も告げられずに捨てられたと思っていたあの日。
 その裏で、彼は私が噂や影口に晒されていたことを知っていた――?



 「俺は結局、君を傷つけた」
 低い声が胸に突き刺さる。
 「だから、また同じことを繰り返すわけにはいかない。……俺には、君を愛する資格なんてない」

 「違います……!」
 抑えきれずに声をあげた。
 「傷ついたのは、理由を言ってくれなかったからです。捨てられたと思ったから……!」

 涙が頬を伝い落ちる。



 沈黙の中、扉がノックもなく開いた。
 「……まだ残ってたんだ」
 佐伯が姿を現し、私の泣き顔を見て眉をひそめた。

 「西園寺さん……辛いなら、無理にここにいなくてもいい」
 彼は迷わず私の肩に手を置く。
 温かい掌が、張りつめていた心を少し緩めた。

 蓮の瞳が、その瞬間かすかに揺れる。
 苛立ちにも似た影を宿した視線。



 「……俺には資格がない」
 再び繰り返されたその言葉が、鋭く胸を裂いた。

 佐伯の支えと、蓮の拒絶。
 二人の狭間で、私の心は深く揺れていた。

 「資格がないのなら……私が、それを与えます」
 かすかに震える声で呟いたその言葉は、彼に届いただろうか。



 けれど彼は、答えを返さずに背を向けた。
 「……これ以上は話せない」
 その背中は、十年前と同じように遠い。

 ――資格がない理由。
 その真実はまだ、すべて明かされてはいなかった。