「必要以上に親しくするな」
 蓮に突き放され、心はずっとざわついていた。
 あの苛立ちの視線の奥にあるのは、ただの上司としての責任?
 それとも――。

 答えを探すように、私は無意識に周囲の声に耳を傾けていた。



 数日後の昼休み。
 休憩室の片隅で、同僚たちの噂話が耳に届いた。

 「藤堂部長って、昔婚約してたんだって」
 「えっ、そうなの?」
 「相手は有名企業のお嬢様だったらしいよ。でも、急に破談になったとか」

 心臓が大きく跳ねる。
 ――婚約。破談。

 それが、十年前の「別れ」の理由……?



 「でも、彼女の方から別れを切り出したんだって」
 「そうそう。藤堂部長、ずいぶんショックだったみたい」
 「それ以来、誰とも真剣に付き合わないって噂だよ」

 ……違う。
 十年前、私に「もう会わない」と言ったのは彼の方だった。
 もし噂が本当なら――私は誤解を抱いたまま、ずっと彼を憎んでいたの?



 午後の仕事に集中できなかった。
 胸の奥で渦巻く不安を抱えたまま残業していると、不意に声がした。

 「……西園寺」
 顔を上げると、蓮が立っていた。
 「遅くまで残るなと言っただろう」
 冷たい声。けれど、その目の奥は苦しそうに揺れていた。

 「部長……噂、本当なんですか」
 勇気を振り絞って問いかける。



 沈黙。
 長い沈黙のあと、彼は低く呟いた。

 「……ああ。十年前、婚約していた」

 胸が締めつけられる。
 やはり、噂は真実だった。

 「じゃあ……どうして、私に何も言わなかったんですか」
 声が震える。
 「突然別れを告げられて、私は……ずっと……」

 涙がこみ上げ、言葉にならなかった。



 彼はゆっくりと視線を落とし、拳を握りしめる。
 「……言えるはずがなかった」
 「どういう意味ですか」

 「……あの頃の俺には、君を守る資格がなかった」
 掠れた声。

 ――資格がなかった?
 その言葉の真意を問おうとした瞬間、彼は背を向けた。

 「これ以上は話せない。……忘れろ」



 去っていく背中を、私はただ見つめるしかなかった。
 噂は真実だった。
 けれど、それだけではない。
 彼が抱えている「言えない理由」が、確かに存在する――。

 「忘れろ」なんて無理だ。
 十年前からずっと、彼は私の中で消えない存在なのだから。