翌朝。
 泣き腫らした瞼を隠すように厚めのメイクを施した。
 けれど、自分ではわかる。
 ――鏡に映る私は、誤魔化しきれていなかった。

 「大丈夫。仕事に集中すれば……」
 そう自分に言い聞かせ、オフィスへ向かう。



 午前の会議は淡々と進んだ。
 私は発言を控え、目立たないように振る舞った。
 けれど、その静けさを破るように、彼の声が響いた。

 「……西園寺、顔色が悪いな」

 「え……」
 不意に名前を呼ばれ、息が止まる。

 「無理をするな。体調が優れないなら早退していい」
 冷静な口調。
 それでも、その視線は真剣で、どこか心配を滲ませていた。



 「だ、大丈夫です」
 慌てて首を振ると、彼は一瞬だけ目を細めた。

 「……そうか」
 短い返事のあと、何事もなかったように会議を続ける。

 なのに、その一言が胸の奥に残って離れない。
 突き放すのに、どうしてこんなふうに優しいの。



 昼休み。
 デスクに戻ると、いつの間にか私の席に紙コップのコーヒーが置かれていた。
 温かさがまだ残っている。

 「え……これ」
 周りを見渡すと、廊下の奥に藤堂部長の背中が見えた。
 振り返りもせずに、ゆっくりと歩いていく。

 「……」
 言葉を失い、ただコーヒーを見つめた。

 黒い液面に映る自分の顔は、かすかに震えていた。



 その日の帰り際。
 荷物をまとめていると、不意に声がかかった。

 「送る」

 振り向けば、彼が立っていた。
 「い、いえ大丈夫です! 駅まで近いので」
 慌てて断ろうとするが、彼は静かに首を横に振った。

 「……夜道は危ない」

 それ以上の説明もなく、彼は私の歩調に合わせて黙って歩き出した。



 傘を差す彼の肩に、ふと雨粒がかかった。
 「部長……」
 思わず声をかけると、彼は軽く首を振る。

 「俺はいい。君が濡れなければ」

 その一言に、胸が熱くなる。
 ――まただ。
 拒絶するのに、どうしてこんなふうに優しくするの。



 駅に着いたとき、彼は短く告げた。
 「気をつけて帰れ」

 背を向けて去っていく背中を、私はしばらく見送っていた。
 涙がにじむ。

 「……ずるい」
 呟いた声は雨にかき消される。

 突き放す言葉よりも、こんな小さな優しさの方がずっと心を揺さぶる。
 それをわかっていて彼は――。



 胸の奥が、また強く痛む。
 「もう、どうすればいいの……」

 十年前から変わらない。
 彼は私を拒みながら、同時に誰よりも優しくしてしまう人。
 ――だからこそ、忘れられない。