サナは粥を平らげた。
 腫らした目はそのままに、それでも顔をあげ、深く息を吸い込み、吐く。
 ランドラルヌーヴはその様子を見て、嬉しそうに目尻を下げた。が、頭を振り、きゅっと表情を引き締めてみせる。

 「……それで、あの……落ち着いたらこのあと、冥王さま、お呼びだから……案内します、ね」

 冥王、という言葉に、サナはぴくりと揺れた。
 腹が膨れたこともあり、あるいはたくさんの涙で脳が冷却されたためでもあろうか、サナの心は急速に水平を取り戻しつつあった。黒の聖女らしい、鋭く冷静な論理性が彼女の本質である。

 粥は、美味かった。簡素に思えるが手が込んでいるし、なによりも懐かしい味に心が揺さぶられた。自分の夢のなかを探して見つけた、と、このランドラルヌーヴという獣人は言った。独断ではないだろう。おそらくは冥王の指示。
 この豪奢な部屋に通したことを考えても、自分を安心させようとする意思は明らかだった。歓心を買おうとしているようにすら思える。

 あり得ることだった。王国へ頻繁に魔物を送り出していたことから、冥王は実力で王国、人間界を支配する意思があると考えていたが、ある程度の力を示した上で懐柔に切り替えることは合理的である。そしてその場合の冥界側の代弁者、交渉者として、元の聖女……サナを充てるべく、考えているのではないか。

 と、なれば。
 サナは続けて考えを走らせ、結論に至った。

 「……あの、大丈夫……って、え、わっ」

 心配そうにサナの顔を覗き込んだランドラルヌーヴは、ふいに立ち上がった彼女にぐいと引き寄せられ、胴に腕を回された。彼女の右手がほのかに発光している。その指先が二本揃えられ、ランドラルヌーヴの喉元に突き立てられている。

 「……ごめん。優しくしてくれてありがとう。ついでに少しだけ、協力して」
 「え、あ」
 「出口を教えて。一番近いところ」
 「……ど、どうするの」
 「逃げる」
 「えっ、うそ、だめだよ、見つかるよ」
 「見つかるでしょうね。でも、冥王にはわたしをすぐに殺せない理由がある。交渉のためか、人間たちの心象を不要に落とさないためか。なら、つけ入る余地はある」
 「……あ、あの……」
 「冥王は強かった。次は勝てる、なんて思わない。でも、逃げ切れるかもしれない。そして逃げられれば、王国には戻れなくても、魔物から人々を護り続けることはできる。わたしの命は、そのために使う」

 言いながら、すでにサナは扉に向かって歩き出している。なかば引きずられるように足を出しながら、ランドラルヌーヴは眉を山形にしてみせた。泣きそうな声を出す。

 「……め、冥王さま、あなたが思うよりずっとずっと……恐ろしい……」
 「わかってる。わたしの都合のよい目論見なんて外れるかもしれない。捕まれば残忍な方法で処刑されるかもしれない。でも、賭ける。あなたはきっと冥王に信頼されている部下でしょう。悪いけど、人質になってもらう」
 「……うう、だめだよ、とにかく大変なことになるから、おねが……」

 なおも訴えようとするランドラルヌーヴの口に手を軽くあて、サナは扉に耳を当てた。外に気配はない。不審なほどに警戒が薄い。普通に考えれば、罠であろう。試されているのかもしれない。が、もとより無いはずの命。
 サナはふうと息を吐いて、静かに扉を開けた。

 「……な……」

 見ているものを理解して、一言だけの感想を絞り出すまでに、たっぷりと呼吸三回分ほどの時間を要した。
 白と蒼、氷を連想させるような色合いで統一された広大な部屋。
 壮麗で繊細な彫刻がなされた巨大な柱が何本も立っている。
 その、奥。
 体躯も色合いもさまざまな魔物たちが居並ぶ先、一際高い壇上に、この冥宮の主たるイーヴェダルトは長大な脚を放り投げるように組み合わせ、肘をついて指で顎を支え、サナたちを遠く見下ろしていた。

 「……ここは、我が城。我が身中である」

 冷たく光る蒼い瞳を細く瞼に隠しながら、冥王はわずかにため息を含ませて言葉を吐いた。
 空間が、冥宮の構造が捻じ曲げられた、と、サナは理解した。目論見がわずかな間に破れ去ったことも同時に悟っている。どれだけ廊下を進もうと、バルコニーから飛ぼうと、しょせん冥王の手のひらの上であったのだ。

 この場、冥宮の王座の間にサナが立つのは二度目である。
 異なっているのは、前回は友と三人であったこと。
 変わらぬことは、いずれの挑戦も失敗に終わったこと。

 「逃げようとしたか」

 抑揚のない声が距離を飛んだ。
 イーヴェダルトは五十歩ほどもあろう距離に座しているが、サナは耳元で囁かれたようにそれを受け取った。冥宮全体の摂理は冥王の意思の上に構築されているのである。
 サナは相手を見据えたまま、動かない。いや、動けない。
 力量の差を思い知ったこともあるが、冥王の瞳がサナを縛っていた。

 イーヴェダルトが立ち上がる。左右の魔物たちがざわりと揺れる。その間をごつごつと、硬い踵を鏡のような床石に打ち付けながら、ゆっくりと、ゆっくりと、サナたちの方へ近づいてくる。
 ランドラルヌーヴはサナの横に膝立ちになっている。腰のあたりでわずかに触れるサナにもわかるほどに、その犬型の獣人は大きく震えていた。

 「……ランドラルヌーヴ」

 手を伸ばせば届く距離に立つ。
 サナは俯き、ランドラルヌーヴは伏せている顔を上げられない。
 決して大声ではない。むしろ静かな、穏やかな響き。が、イーヴェダルトの声は二人を貫き、肌をびりりと痺れさせた。
 
 「どういうことか」
 「いえ、あ……あの……」
 「なぜ、このようなことになる」
 「……そ……それ、は……」

 イーヴェダルトはわずかな間、なにかを考えるように首をわずかに傾げてみせた。と、ふと思いついた、というように小さく眉を上げる。
 その手が、俯いているサナの顔に近づけられた。
 サナは顔を逸らす。が、冥王の長い指が彼女の顎にかかり、く、と持ち上げられた。
 口元に、冥王が顔を近づける。

 「……っ」

 抵抗するが、及ばない。
 ゆっくりと近づき、冥王の鼻先がサナのそれに微かに触れた。
 サナはぎゅっと目を瞑り、自らに施した純潔の秘儀の発動を覚悟した。意図しない方法で尊厳が奪われた場合、物理的にも霊的にも破砕するという、自決の術。口付けでは発動しないはずだが、サナはそれすら経験がなかったから、自分の心がどこまでを許容するかを自身で理解できていない。

 が、待っていたものは来なかった。
 秘儀の発動も、口付けも。
 すん、と、小さな音がして、サナは薄く目を開いた。

 冥王は顔を傾け、サナの口のあたりに鼻先を置いていた。
 口臭を嗅いでいる。

 サナは大声を出そうとし、だがそうするとなお息を相手に吐く形となるから、堪えた。できるだけ大きく吸い、息を止める。目の前の白金の長髪を、砕けよとばかりに睨みつける。

 「……違う」

 イーヴェダルトは顔を離しながら呟いた。形の良い眉根を寄せ、小さく首を振っている。
 意図がわからず呆然としているサナの横を、イーヴェダルトはかっと踏み出し、通り過ぎた。背後の扉をばんと開け、消える。
 と、前方に居並ぶ魔物たちが小さくざわめいた。息を吐くような、やれやれ、というような空気をサナは感じた。その視線はサナと背後の扉に集まっているが、扉はすぐにまた引き開けられ、イーヴェダルトが入ってくる。

 その手に、皿。
 先ほどサナが平らげた粥の器を持ち、鼻を近づけながら、イーヴェダルトは二人の前に立った。膝立ちのまま見上げたランドラルヌーヴの目の前にそれを突きつけるように差し出す。

 「……嗅いでみよ」
 
 言われて、ランドラルヌーヴは恐る恐る鼻をうごめかした。

 「……い、異常は……ないものと」
 「わからぬのか」

 イーヴェダルトの声にわずかな苛立ちが含まれた。
 
 「我が記憶と異なる。いまだ油脂の匂いが強かったはず。塩も足りぬ。香草の組み合わせもわずかに相違していよう。何故にわからぬ……が、これで合点がいった。このようなものを出したが故であったか」
 「……」
 「心地良き部屋に導き、懐かしき味を与えれば必ずや落ち着く。逃げようなどとは思わぬ。だから任せよと、貴様らがそう申したのであろう。我に、待てと、余計なことはするなと、そう申したであろう」
 「あ、あの……た、確かに、夢のなかから……このひとのお母さまの作り方を探したので、間違っては、いないかな、と……」

 イーヴェダルトの瞳が強く輝いた。視線を受け、ランドラルヌーヴはきゅうと音を立てて尻尾を巻き込み、耳を伏せる。
 サナは、状況が読み取れずに惚けたような表情となっている。その上に視線を移し、頬に、イーヴェダルトは再び手を伸ばした。サナは身を小さくしたが、静かに沿わされた手のひらを避けることはしなかった。

 「……我とても、そなたが幼き頃よりずっと見ていた。同じものを目にし、同じものを口にして、同じ褥に寛いだのだ。そなたの母の味、誤るはずがない」
 「……え」

 目を見開いたサナをまっすぐ見て、冥王はわずかに表情を緩めた。
 その瞳に浮かんだ色に、これまでとは異なる種類の怯えをサナは感じた。

 「逃げるな。あのような下賤のもとに戻ろうなどと思うな。案ずることはない。そなたのことは知悉しておる。好みも、癖も、背の黒子《ほくろ》の数もな」