紙片に残る面影

 美月と偶然再会した翌日。
 結衣は出社しても落ち着かず、パソコンの画面を前にしても文字が頭に入らなかった。
 カフェで聞いた美月の謝罪の言葉が、耳の奥に何度も甦る。

——誤解だった。悠真くんはあなたを大事にしてた。
——でも、許せない。

 理性では理解できても、心は頑なに拒絶する。
 親友と恋人が寄り添っていた光景は、どうしても消えなかった。

(……信じたいのに、許せない。どうして……)

 机の上の書類を無意識に指先でカリカリといじっていた。
 その小さな音が、隣の席から視線を引いたことに気づかないまま。



 昼下がり。
 会議室での打ち合わせが終わり、片づけをしていた結衣に、低い声がかかった。

「篠原さん」

 振り向いた瞬間、息を呑んだ。
 悠真が立っていた。いつもより真剣で、鋭い眼差し。

「……はい」
「話がある。少し時間をくれないか」

 心臓が跳ねる。断ろうとした唇が震え、声にならない。
 結局うなずいてしまい、会議室に二人きりになった。

 扉が閉まる音がやけに重い。
 沈黙を破ったのは悠真だった。

「……君は、やっぱり結衣なんだろう?」

 全身が凍りつく。
 耳に届いた“結衣”という名前。
 五年間封じ込めてきたものを、無理やり引きずり出された気がした。

「な、何を……言ってるんですか」
「誤魔化さなくていい。仕草も、声も……何より、紙をいじる癖。あれは——」
「違います!」

 思わず声を荒げた。
 胸の奥がぎゅっと痛む。

「私は結衣なんかじゃありません。あなたの知ってる人間じゃない」
「じゃあ、なぜそんなに必死に否定する?」

 悠真の声は静かだが、鋭い。
 視線が突き刺さり、呼吸が苦しくなる。

「……私は、もう別の人生を生きてるんです。過去なんて、どうでもいい」
「本当にそうか?」

 否定の言葉が喉に詰まる。
 涙がにじみそうになり、視線を逸らした。



 沈黙のあと、悠真が低くつぶやいた。

「五年前のこと……誤解だったんだ」

 胸が大きく揺れた。
 美月の言葉が甦る。だが、それを受け入れることはできなかった。

「……そうやって言えば、私が納得すると思ってるんですか?」
「違う。ただ、本当のことを知ってほしいだけだ」
「やめてください!」

 声が震えた。
 必死に冷静を装おうとしても、感情があふれ出してしまう。

「たとえ誤解だったとしても、私が感じた痛みは消えないんです。裏切られたと思った瞬間の苦しさは……今も残ってる」

 涙が頬を伝った。
 悠真が近づこうとしたが、結衣は一歩下がる。

「だから……これ以上、近づかないでください」

 震える声でそう告げ、会議室を飛び出した。



 廊下を駆け抜け、休憩スペースに駆け込む。
 壁に背を預け、息を整えようとした。

(また……逃げた。私はいつもそう)

 指先が机の端をカリカリとこする。
 直そうとしても直せない癖。
 それが、彼に「結衣」を思い出させる決定的な証になってしまった。



 一方、その場に取り残された悠真は、拳を握りしめていた。

(やっぱり……結衣だ。間違いない)

 震える声も、涙を堪えきれない顔も。
 五年前に見た彼女と同じだった。

(けれど、まだ俺を許していない……)

 自分を信じず、拒絶する彼女。
 その痛みに、胸の奥が焼けるようだった。



 夜。
 結衣はベッドにうずくまり、シーツの端を指でこすりながら泣いていた。

(信じたい。信じたいのに……許せない)

 美月の言葉と、悠真の言葉。
 どちらも本当のようで、どちらも受け入れられない。

 許せない心と、まだ残る想い。
 交わるはずのない感情に引き裂かれながら、結衣は夜を過ごした。