紙片に残る面影

 その日、結衣は仕事を終えると、重い足取りでオフィスを出た。
 気分を切り替えたくて、駅前のカフェに立ち寄る。
 夜の帳が下り始めた街を、柔らかなオレンジ色の照明が彩っていた。

 カウンター席に座り、カフェラテを注文する。
 温かいカップを両手で包み込むように持ちながら、深いため息を吐いた。

(あの人のことなんて……考えたくないのに)

 それでも頭から離れない。
 ロビーで見た女性社員と悠真の姿。
 そして五年前の、あの図書館での光景。

 彼と親友が寄り添っていた場面が、今も瞼の裏に焼き付いている。
 あの痛みは消えず、今も心を支配していた。

 そのときだった。

「……結衣?」

 背後から懐かしい声がした。
 心臓が跳ね、振り返る。
 そこに立っていたのは——美月だった。

「み、美月……?」
「やっぱり! 偶然ね、ここで会えるなんて」

 明るい笑顔。
 けれど結衣の胸は、氷のように冷え込んでいた。



 二人は窓際のテーブルに座った。
 店内は仕事帰りの客で賑わっていたが、結衣の耳には何も入ってこない。
 ただ目の前の美月が、過去を思い出させる存在として居座っていた。

「元気そうで良かった。……少し痩せた?」
「……まあ」

 曖昧に答える。
 目を合わせるのが苦しかった。

 やがて、美月が小さく息を吐き、真剣な顔で結衣を見つめた。

「結衣……ずっと謝りたいと思ってたの。五年前のこと」

 全身が強張る。
 聞きたくない言葉が、ついに告げられた。

「図書館で、私……悠真くんに抱きついた。あれを見たんでしょ?」

「……忘れるわけ、ない」

 結衣の声はかすれていた。

「誤解なの。あの時、私は恋人と別れたばかりで、どうしようもなく辛かった。泣いていたら悠真くんが通りかかって……慰めてくれただけ。あれ以上のことなんて、何もなかった」

 必死な声音。
 けれど結衣の胸には、怒りと苦しみが渦巻いた。

(そう言えば済むと思ってるの? 慰めなら……あんな抱きしめ方をする必要があったの?)

 唇を噛みしめる。涙が滲みそうになるが、必死に堪えた。

「悠真くんは、結衣のことを本当に大事にしてた。……だから、余計に申し訳なくて」

 美月は目を伏せ、言葉を続けた。

「私が弱かったの。あのときあなたの恋人に甘えちゃいけないのに……。ごめんね、本当に」

 その謝罪を、結衣はただ黙って聞いていた。
 けれど心は頑なに固まっていた。



(謝られても……私はあの時の痛みを、消せない)

 最愛の人と、親友が抱き合っている光景。
 信じていた二人に裏切られたと思った瞬間の、胸を切り裂かれるような苦しさ。

(あれを見て、私は全てを終わらせた。あの日から私の時間は止まったまま……)

 たとえ真実が違っていたとしても、心に刻まれた“裏切られた痛み”は消えない。
 だから——許せなかった。

「……もういいの」

 やっと絞り出した言葉は、冷たく響いた。

「謝らなくていい。あの日のことは……忘れたことにするから」

 美月が顔を上げ、切なげに結衣を見つめた。
 けれど結衣はそれ以上何も言わず、立ち上がった。

「ごめん、今日は帰るね」

 カフェを出た夜風が、涙を隠してくれた。



 帰り道。
 街灯の下を歩きながら、結衣は両手で顔を覆った。

(忘れる? そんなこと、できるわけない……)

 涙が頬を伝い、止まらなかった。
 許したい、信じたい。
 でも心が叫んでいる。

(あの光景だけは、一生忘れられない。許せない……)

 紙袋を握りしめる指先が、無意識にカリカリと端をこすった。
 変わらない癖。
 それが、過去と今を繋ぐ痛みの証のように思えた。



 翌日。
 オフィスの廊下で悠真に呼び止められる。

「篠原さん」
「……はい」
「昨日……泣いてただろう」
「っ……」

 心臓が跳ねた。
 どうしてわかるの、と問い詰めたいのに言葉が出ない。

「無理をするな。……昔から、そうやって一人で抱え込む癖がある」

 その言葉に、結衣は全身を震わせた。

(やっぱり……気づいてる)

 けれど認めることはできない。
 唇を固く結び、ただ深く頭を下げた。

「……失礼します」

 足早に立ち去る。
 背後で彼の視線を感じながら。



 夜、自室。
 机に突っ伏し、シーツを指先でカリカリとこすりながら、結衣は涙をこぼした。

(美月を許せない。あの日の痛みを……誰も消せない)

 それでも、悠真の言葉が心に残っていた。
 ——「昔から、そうだった」

 彼は確かに、結衣を見抜いていた。
 だからこそ、心は余計に揺れてしまう。

 許せない気持ちと、まだ消えていない想い。
 その二つに引き裂かれながら、結衣の夜は更けていった。