紙片に残る面影

 その週の金曜日。
 外は小雨が降り始め、オフィスの窓を濡らしていた。
 残業をしている社員は少なく、フロアには静かな空気が漂っている。

 デスクの上で資料をまとめていた結衣は、気づけば時計の針が九時を回っていることに驚いた。
 帰ろうかと立ち上がったとき、背後から声がかかる。

「篠原さん、まだ残ってたのか」

 振り返れば、悠真がスーツの上着を肩に掛け、手に書類を持って立っていた。
 蛍光灯に照らされた横顔は、昼間よりも柔らかく見えた。

「あ……はい。提出用のデータがまだ完成してなくて」
「几帳面なんだな」
「そ、そんなこと……」

 気恥ずかしくて視線を逸らし、慌ててキーボードを叩く。
 だが緊張のせいで入力を間違え、消去キーを連打した。
 その瞬間、指先がまた紙をカリカリとこすってしまう。

 小さな音。
 しかし悠真の耳は、それを逃さなかった。

「……その癖」

 思わず顔を上げる。
 悠真はじっとこちらの手元を見つめていた。

「緊張すると、昔から紙の端を触るんだな」
「えっ……」

 心臓が止まりそうになる。
 喉がからからに乾き、言葉が出ない。

「いや、別人に言うことじゃないな。……すまない」
 そう言って彼は視線を逸らし、軽く咳払いした。

 けれどその横顔に浮かんだ迷いの色は、確かに結衣の胸を震わせた。



 残業を終えて帰ろうとすると、エレベーター前で再び彼と鉢合わせた。
 狭い空間に二人きり。
 沈黙が重く降りる。

 やがて彼が口を開いた。
「篠原さん」
「……はい」
「どこかで会ったこと、ないだろうか」

 喉が詰まる。
 胸が早鐘のように鳴り響く。

「い、いえ……そんなはずは」
「そうか」

 短い答え。だが、その声には納得していない響きがあった。
 視線がじっと突き刺さる。
 結衣は堪えきれずにバッグを握りしめ、俯いた。

 エレベーターが到着し、扉が開く。
 二人は無言のまま乗り込み、下へと降りていった。
 蛍光灯の薄明かりに照らされる中、心臓の音だけがやけに大きく響く。

(……お願い。どうか気づかないで)



 翌週。
 チームで進めるプロジェクト会議があり、結衣は資料の読み上げを任されていた。
 緊張のあまり、声が震えそうになる。
 手に持った資料をカリカリといじる。

「……」

 その瞬間、悠真の視線が射抜いた。
 鋭いのに、どこか懐かしさを含んだ眼差し。
 結衣は息を呑み、思わず資料を抱きしめるように胸元に隠した。

 会議後、廊下で呼び止められる。
「篠原さん」
「はい……?」
「君、本当に……結衣じゃないのか」

 心臓が跳ね上がる。
 血の気が引き、手のひらが汗でじっとりと濡れた。

「け、結衣……?」
「……いや、すまない。忘れてくれ」

 彼はそれだけ言って背を向けた。
 しかし去っていく背中は、迷いを振り切れずにいるようだった。



 夜、結衣は部屋のベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。

(どうして……どうしてあの名前を……)

 まだ声が耳に残っている。
 「結衣じゃないのか」
 その言葉が胸の奥を激しく揺さぶる。

(……私はもう、あの日の結衣じゃない。苗字も変わったし、眼鏡をかけて……過去とは別人なんだから)

 そう思いたいのに、心は言うことを聞かない。
 彼に気づかれたらどうなるのか。
 誤解を解く勇気もなく、真実を告げる恐れも大きすぎる。

 だから結衣は、ただひとり声を殺して泣いた。
 指先でシーツをカリカリとこすりながら。