十一月に入り、空気が一段と冷たくなったある日。
 篠宮家が長年支援している文化財保存基金のチャリティーイベントが、都内の美術館で開かれた。

 美琴は母の代理として招かれ、控えめなベージュのワンピースに同色のショールを羽織って会場に向かった。
 ガラス張りのエントランスから入ると、色鮮やかな絵画や彫刻が並び、落ち着いた照明の中で人々が談笑している。

「美琴さん、お久しぶりです」
 声をかけてきたのは、父の知人の息子で、同年代の青年・宮村隆臣だった。
 スーツの襟元から覗く柔らかな笑みは、学生時代から変わらない。
「宮村さん、こんばんは」
「今日はお一人で?」
「はい、母の代理で……」
「そうですか。じゃあ、少しご一緒してもいいですか」
 気さくな口調に、美琴は自然と頷いていた。

 二人は展示室を歩きながら、最近の出来事や共通の知人の話をしていた。
 宮村の冗談に思わず笑い声がこぼれる。その瞬間、心が少し軽くなるのを感じた。
 ――悠真の前では、こんなふうに笑えていただろうか。

 そのとき。
 展示室の入口近くで、黒のコートを着た長身の男性が立ち止まっているのが目に入った。
 ――悠真。

 視線がぶつかる。
 一瞬で空気が張り詰めたように感じ、美琴は咄嗟に笑みを消した。
 しかし、悠真は何も言わず、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

「……偶然だな」
 低い声が、いつもより硬い。
「こんばんは。お仕事の帰りですか?」
「ああ。立ち寄ってみたら、知っている顔が見えた」
 その言葉に、宮村が軽く会釈する。
「お久しぶりです、朝倉さん」
「……ああ」
 短い返事と共に、悠真の視線は再び美琴に戻った。

 その瞳の奥には、言葉にならない感情が揺れている。
 けれど美琴は、それが何なのかを深く考えないようにした。
「そろそろ失礼しますね、宮村さん」
「えっ、もう?」
「はい。またゆっくり」
 軽く会釈し、悠真の横を通り抜ける。

 廊下に出た途端、悠真が低く問いかけた。
「楽しそうだったな」
「……え?」
「さっき、笑ってた」
「……ええ。宮村さんが面白い話をしてくださったので」
 何気なく答えたつもりだった。
 だが、悠真の眉間の皺がわずかに深くなったのを見逃さなかった。

「……俺の前じゃ、あんなふうに笑わない」
「そんなこと……」
「ある」
 その短い言葉が胸に刺さる。
 足を止めると、彼の視線が真っ直ぐに突き刺さってきた。
「……送る」
 反論を飲み込み、美琴は黙って頷いた。