千草さんと奏多に連れられて、駅ビルの中華へ入った。昼時で混んでいる。店内は湯気と香辛料の匂いで満ち、外の雨の湿り気が遠のく。

「で、どうだった? “若手部長”の印象」
 千草さんがメニューの縁でテーブルを小気味よく叩く。

「……論理的で、厳しい。でも間違ってない指摘だった」

「へえ。顔がいいって噂は合ってた?」
「千草さん」
 思わず苦笑いがこぼれる。そういう話題のほうが、今は楽だ。

 奏多はといえば、メニューを覗き込みながら、横目で私の表情を盗み見ている。
「麻婆か担々麺か……香山は辛いのいけたっけ?」

「いける。担々麺にする」

「俺も。じゃ、餃子も足して……千草先輩は?」

「私は黒酢酢豚。午後も会議だしね」

 料理が運ばれてくるまでの短い間、私は指先で名刺入れを撫でた。紙の角が、きちんと整列した名刺たちの間で、ひとつだけ異質な温度を持っている気がする。

 湯気の立つ担々麺が目の前に置かれた。ごまの香り、青梗菜の緑。レンゲで一口啜ると、舌にしびれが広がって、胸のざわめきが少しだけ収まる。

「神宮寺さん、薬指にリングしてたよね」
 千草さんの一言に、再び心臓が、麺の辛さと無関係に跳ねた。

「見えた?」

「うん。細いプラチナ。男の人にしては繊細だったから、婚約っぽいのかなって」

 婚約。喉の奥がきゅっとなる。
 ——聞けば早い。けれど、なぜ私が聞く? 何の立場で? 仕事の相手。それ以上でも以下でもない。

 奏多が割り込むように口を開いた。
「まあ、指輪はファッションって人もいるし。ね、美桜?」

「……そうだね」

 奏多は一瞬だけ、目を伏せた。何かを飲み込むみたいに。
 その仕草が胸に引っかかり、私は慌てて麺を啜った。熱い湯気で目が潤む。辛さのせいだ。そうに決まっている。

 午後、オフィスに戻ると私はすぐに原稿の修正に取りかかった。
 “かもしれない”を一回に削り、“だから”で結ぶ。迷いを断ち切る語尾に置き換えると、確かに全体の輪郭が締まる。
 視線の端に、彼がさらさらと書いた補正式が浮かぶ。ひと筆に迷いがない字。高校の時、黒板に書いていた字と変わらない。几帳面で、少しだけ癖がある。

「香山、さっきの修正文、私にも回して」
 千草さんがデスク越しに声を掛け、私は完成したテキストをメールに添付した。
 宛先は、片瀬さん。——“実務は私がハンドルしますね”。そう言われた通りに。

 送信ボタンを押した直後、通知音が鳴った。
《受領しました。社内展開のうえ、神宮寺レビューに回します/片瀬》

 敬語の温度は完璧だ。宛先に“神宮寺”の名を見ただけで、胸がまた忙しくなる自分が、鬱陶しい。

 しばらくして、社内チャットがピコン、と鳴った。
《星和HD:神宮寺》
《修正文、ありがとう。論点は合っている。1箇所だけ数値の根拠を明示したい。詳細は明朝、御社で5分もらえる?》

 五分——。たったそれだけの時間なのに、私は画面の前で息を止めていた。
《了解しました。明朝9:00、会議室Bでお待ちします/香山》
 打ち込む指先が少し震えたが、キーボードは当然の顔をしていた。

 夕方、部署の端で噂話が風のように流れた。
「ねえねえ、神宮寺さんって本社の重役の娘さんと——」
「え、やだ。あの人そんな感じじゃなくない?」
「わかんないけど、左手に指輪してたって。見た人いる?」

 笑い声と好奇心が混じった温度。
 私は耳を塞ぐふりに、ヘッドホンを装着した。音楽は流さない。ただ、外側の音が直接は触れないようにするための道具。
 ——好きとか、そういうの、もうやめたい。
 再会は偶然。仕事は仕事。線を引かないと、昔の私が出てきてしまう。

 定時を少し過ぎて、オフィスを出る。
 雨はほとんど上がっていて、ビル風が濡れた街路樹の葉を揺らす。エレベーターホールに立つと、遠くで誰かの足音が響き、扉が開く。

 中には、彼——神宮寺遥斗と、片瀬さん。
 二人ともわずかに疲れの残る顔で、それでも仕事の余韻を纏っている。同じ案件に向き合う人特有の空気。私は軽く会釈した。

「お疲れさまです」
「お疲れさま」
 短いやり取り。密閉された箱の中に、香水でも柔軟剤でもない、雨上がりの匂いが残っている。
 視線を上げると、彼の左手が自然に胸の前で組まれていた。指輪が照明に小さく光る。

 心臓が、きゅっと鳴る。
 視線を外した私に、片瀬さんが穏やかに微笑んだ。
「明日の朝、神宮寺と伺います。よろしくお願いしますね、香山さん」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 エレベーターが一階へ着く。扉が開き、冷たい外気が流れ込む。
 私が先に降りると、彼の声が背中に落ちた。

「——明日、五分で済むように準備しておく」

 振り向くほどでもない短い言葉。私は「はい」とだけ返して、ロビーを抜けた。
 ガラス扉の向こう、街の光が滲んでいる。雨粒はもう落ちてこない。それでも足元には、昼間の名残のように小さな水たまりが点在していた。

 最寄りのスーパーで適当に総菜を買い、狭いキッチンでレンジの音を聞く。
 ひとり暮らしの部屋は、音が少ない。電子レンジの回転する低い唸りと、窓の外を通る車のタイヤ音が、今日一日の輪郭を確かめるみたいに反響する。

 テーブルに買ってきたサラダとスープを並べ、私は名刺入れを取り出した。
 白い紙の上で、黒いインクが端正に並ぶ。——神宮寺遥斗。直通番号、メール。
 私はスマホを手に取り、メッセージアプリを開いた。
《本日はありがとうございました。明日、9:00会議室Bでお待ちします》
 ビジネスでよくある、礼儀としての一文。指が「送信」に触れたところで、一拍、躊躇する。

 “香山、また連絡する”
 雨の下で彼が言った言葉が、一瞬だけ画面に重なる。
 ——また、は仕事の“また”。それ以上の意味を勝手に付けない。
 送信。
 数分後、返信が届いた。
《了解。明朝よろしく》
 簡潔で、温度の少ない返事。期待も失望も、そこには存在しない。
 私はスマホを伏せ、スープを口に運んだ。熱い。味はちゃんとするのに、何を食べても同じに感じる夜が、たまにある。

 食器を洗い、シャワーを浴び、ドライヤーの風で髪を乾かす。
 鏡の中の自分は、見慣れた顔だ。目尻に少し疲れが出ている。
 タオルで首筋の水滴を拭いながら、洗面台の引き出しを何気なく開ける。底のほうに、薄いブルーの封筒が一枚、滑り込むように眠っていた。

 ——高校の、卒業式の日。
 机の中に入れたまま渡せなかった手紙と同じ色。
 指先が封筒に触れ、思い出がひらりと舞い上がる。けれど封はしていない。空の封筒だ。何も書かなかった、何も書けなかった証拠。

 ライトを消し、ベッドに横たわる。
 目を閉じれば、雨音と信号の電子音が蘇る。傘の縁から落ちる雫の円。隣を歩く大きな影。
 “くん”と呼ぶことの出来なかった距離。仕事の“さん”が作る壁。

 ——明日。五分。
 打ち合わせの中のたった五分に、私の七年が触れようとする。
 寝返りを打つ。枕の上で髪がさらりと鳴る。
 眠りは浅く、夢は雨の匂いがした。

 翌朝。
 目覚ましより少し早く目が覚め、カーテンを開けると、曇り空が窓一面に広がっていた。
 コーヒーを淹れ、薄くメイクを整える。クローゼットから白いブラウスを選び、ジャケットの肩を払う。
 ——五分。
 心の中で繰り返す数詞に呼吸のリズムを合わせ、私は家を出た。

 会社に着くと、まだフロアの半分は灯りがついていなかった。資料をプリントし、会議室Bのホワイトボードに今日の議題を小さく書いておく。
 八時五十五分。扉が叩かれた。

「失礼します」
 片瀬さんの落ち着いた声。続いて、彼の足音。
 入ってきた遥斗は、ネイビーのスーツに淡いグレーのネクタイ。朝の空気のように清潔で、目つきはもう仕事の温度に整っている。

「早いですね」
 自分の声が少し明るいのを自覚して、慌てて落ち着かせる。
「資料、こちらです。問題の箇所に付箋を」

「助かる」

 彼は椅子に腰を下ろし、資料に目を通す。横で片瀬さんがタブレットを立ち上げ、スケジュールを確認している。
「数値根拠は——ここ。調査ソース、この仮説でいける?」
「はい。生活者パネルの直近データで裏付けが取れます」

「いい。じゃ、ここだけ “〜だから” をもう一段強く」

 ペンが走る。彼は要点だけを正確にすくい上げ、余分をそぎ落とす。
 私の中の緊張が、仕事の緊張に置き換わっていく。言葉と数字は、どちらも輪郭を与えてくれる。迷わずに済む。

 五分、のはずだった。
 終わって時計を見ると、八分が過ぎていた。
「時間、超過しました。すみません」
「いや、必要な話だった。ありがとう」
 珍しく、彼が柔らかく言った。胸の中に小さな灯りがともる。

 片瀬さんが立ち上がる。
「では、私は先に戻って準備を進めます。神宮寺は午後、本社会議の前にこちらに常駐して詰めますね」
「……常駐?」思わず聞き返す。

「今日だけ。急ぎの案件だから」
 遥斗は簡単に言って、視線を窓の外へ流した。曇ったガラスに街の輪郭が薄く映る。

 心臓がまた忙しく動き出す。
 常駐——つまり、同じフロアに彼がいる。昼も、夕方も、目の端が何度も勝手に彼を探す。そんな一日が始まる。

「じゃあ、また後で」
 会釈を交わし、二人は会議室を出ていく。
 扉が閉まる瞬間、彼の左手が視界を横切った。白い指に、細いプラチナの輪が光る。
 理由を知らないままの小さな光が、私の胸に影を落とした。

 それでも私は、マーカーでホワイトボードの「議題」の文字を消す。
 ——仕事の顔を、ちゃんとやる。
 心の中でそう言い聞かせ、マーカーのキャップをはめた。乾いた音が、朝の静けさに小さく響いた。