雨上がりの翌朝は、空気がやわらかく澄んでいた。
 会社へ向かう道の街路樹は、まだ葉先に小さな雫を残し、それが朝日を受けて光っている。
 この道を歩く足取りが、以前より軽いことに気づく。
 ——誤解はもう、後ろに置いてきた。
 そう思えるだけで、こんなにも呼吸は楽になるのか。

 出社すると、デスクの上に一枚の小さなメモが置かれていた。
 《おはよう。今夜、少し歩かないか——H》
 イニシャルだけの短いメッセージに、口元がゆるむ。
 “歩かないか”という言葉の中に、彼なりの優しさと距離感が詰まっている気がした。



 午前中は、来月公開予定のキャンペーンページの最終チェックに追われた。
 デザインデータの色味、テキストの改行、スマホ表示のレイアウト……一つひとつの修正に、指先と視線を集中させる。
 ふと視界の端で、神宮寺が別チームのメンバーに的確な指示を出しているのが見えた。
 仕事中の彼は相変わらず隙がなく、その背中を見ているだけで、自然とこちらの姿勢も正される。

 昼休み、千草さんが隣の席に腰を下ろし、声を潜めた。
「最近、いい顔してるじゃない」
「そうですか?」
「うん。前より目が柔らかい。……まあ、詳しくは聞かないけど」
 そう言って微笑む先輩に、感謝の気持ちがこみ上げる。
 味方は、案外近くにいるものだ。



 定時を過ぎ、約束の時間。
 会社を出ると、神宮寺がエントランス前で待っていた。
 ネイビーのコートを羽織り、手には折りたたみ傘。
「今日は雨は降らないみたいですよ」
「念のため」
 そう言って歩き出す彼の横に並ぶ。

 オフィス街を抜け、公園のほうへ向かう。
 夕暮れの空は群青と朱色が混ざり合い、ビルの窓に映り込んでいる。
 歩幅を合わせながら、仕事のこと、互いの休日の過ごし方、好きな食べ物——取りとめのない会話が続く。
 その一つひとつが、これまでになかった“日常”として胸に積み重なっていく。



 公園のベンチに腰を下ろすと、神宮寺が少し真剣な表情になった。
「……これからも、たぶんいろんなことがある。誤解や噂や、仕事の壁も」
「はい」
「でも、今回は一人で抱え込ませない。俺がいる」
 短く、けれど強い言葉だった。
 胸の奥に、その声が深く沈んでいく。
「私も……あなたを支えたいです」
 目を合わせて言うと、彼の表情がやわらかくほぐれた。

 沈黙が流れ、街灯がぽつぽつと灯り始める。
 その光に照らされた横顔が、七年前より少し大人びて、けれど変わらないまっすぐさを持っていることに気づく。
 ——あの日、卒業式の朝に言えなかった言葉を、今はもうためらわない。

「……これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」



 帰り道、彼は何も言わずに折りたたみ傘を開いた。
 夜空からは、ほんのわずかに霧雨が落ちていた。
 傘の下、肩と肩が触れる距離で歩く。
 それは、ただの帰り道でありながら、私にとって新しい物語の始まりでもあった。