——四月末。
 新人研修と初期案件のアシスタント業務が一区切りし、部署全体の歓迎会を兼ねた打ち上げが開かれることになった。
 場所は会社近くの居酒屋。夜風がまだ冷たく、ビルの谷間を抜けてくる。

「春川さん、こっち空いてるよ!」
 同期の佐伯が、奥の席から手を振った。
 テーブルには既にいくつものジョッキやグラスが並び、唐揚げの匂いと笑い声が入り混じっている。

「お疲れさまでーす!」
「お、春川さん来た!飲める?飲めるでしょ?」
 先輩社員たちが次々と声をかけ、席に着く間もなくジョッキが差し出される。

「い、いえ、あまり強くないので……」
「じゃあカクテルにしときな〜」

 アルコールの甘い匂いに、早くも頬が熱くなる。
 そのとき——。

「飲めないなら無理するな」
 低く響く声に振り向くと、数席離れた場所に神崎がいた。
 グラスを片手に、静かに会話を聞き流しながらも、こちらを一瞥していた。
 目が合った一瞬、心臓が跳ねる。

「……はい」

 隣の佐伯がにやにやと肘で突いてくる。
「おー、課長、ちゃんと気にかけてくれてるじゃん」
「ち、違うよ。新人だから、ただの——」
「ただの? はいはい、わかったわかった」

 佐伯の茶化す声に、グラスの水割りがやけに苦く感じられた。

 

 宴が進むにつれて、席替えや飲み回しが盛んになり、美咲もあちこちの先輩と話すことになった。
 プロジェクトの裏話や社内の噂話、時に恋愛話まで。
 ふと、背後から聞き覚えのある女性の声がした。

「宮園さん、さすがですねぇ。神崎課長と二人三脚であの案件こなしたんでしょ?」
「まぁ、課長が優秀ですから」

 柔らかな笑い声。
 振り向けば、秘書の宮園がグラスを持ち、神崎と並んで話していた。
 神崎は真剣な表情で何かを聞き、宮園は微笑みながら答えている。
 その距離感が、どうしても仕事だけには見えなかった。

(……気にしない、気にしない)

 頭ではそう繰り返しても、胸の奥がざわつく。
 そのざわめきを誤魔化すように、美咲は隣の佐伯のジョッキにビールを注いだ。

「お、ありがとう! 春川さんも飲む?」
「じゃあ……少しだけ」

 アルコールはみるみる身体を巡り、頬の熱が耳まで広がっていく。
 笑い声が心地よく遠のき、視界の端がぼやけた。

 

「——春川」

 気がつけば、低い声が耳元に落ちてきた。
 顔を上げると、神崎が立っていた。
 スーツのジャケットを肩にかけ、視線はまっすぐこちらに向けられている。

「飲みすぎだ。帰るぞ」
「え……でも、まだ——」
「立てるか」

 腕を取られ、思わず息を呑む。
 人混みをすり抜けるときの彼の背中は、昼間のオフィスとは違い、やけに近く感じられた。

 外に出ると、夜の空気が一気に酔いを冷ます。
 神崎はタクシーを止め、ためらいなくドアを開けた。

「乗れ」
「……すみません」

 車内、神崎は行き先を告げたあと、黙って窓の外を見ていた。
 街灯が流れ、横顔の輪郭が浮かび上がる。

「……課長は、あまり飲まないんですか」
「必要がない」
「必要……?」
「酔えば判断が鈍る。仕事にも支障が出る」

 事務的な答え。
 けれど、その声がほんのわずかに柔らかくなった気がしたのは、酔いのせいだろうか。

「着いたぞ」

 降車のとき、神崎はふと視線を落とした。
「明日、午前は休め。無理なら午後から出社しろ」
「で、でも——」
「命令だ」

 有無を言わせない口調に、逆らう言葉が飲み込まれる。

 タクシーが去っていくのを見送りながら、美咲は胸の奥に複雑な感情を抱えていた。
 優しさと、距離感と、そして——噂の宮園。

 翌日、その夜の出来事が、思わぬ形で社内に広まることになるとは、まだ知る由もなかった。