——金曜の午後。
 来週のクライアント提案に向け、社内は慌ただしさを増していた。
 美咲は神崎の補佐として、資料の最終チェックや進行管理に追われていたが、不思議と今週はそれが苦ではなかった。
 あの日、宮園から聞いた“神崎の過去”が、厳しい言葉の奥にあるものを少しだけ理解させてくれたからだ。

(もっと役に立ちたい……)

 そう思うと、自然と動きが早くなり、神崎からも「判断が早くなったな」と短い評価をもらえた。
 その一言だけで、胸が熱くなる。

 

 夕方、営業チームの一員が美咲のデスクにやってきた。
 若手の営業マン・藤村だ。
 明るい笑顔で軽く手を挙げる。

「春川さん、あの資料ありがと。助かったよ」
「いえ、私も勉強になりました」
「じゃあお礼に、今度ランチでもどう?」

 冗談半分のような軽い誘い。
 美咲も笑って「考えときます」と返した——その瞬間。

「春川」

 低く、鋭い声。
 振り向くと、神崎が資料を手に立っていた。
 視線は藤村を一瞥しただけで、美咲に向けられている。

「その件、確認が必要だ。来い」
「あ、はい……」

 強引に歩かされ、会議室の扉が閉まった瞬間、神崎の声が落ちる。

「……あいつと何を話してた」

「え……ただお礼を言われただけで」
「“ランチでもどう”と聞こえたが」

「そ、それは……冗談だと思います」

 神崎はしばらく黙っていたが、やがて机に資料を置き、ゆっくりと近づく。
 距離が狭まり、息が触れそうなほどに迫られる。

「……俺の前で、他の男からの誘いに笑って答えるな」

 その声は、冷たさと熱さが入り混じっていた。
 驚きで言葉が詰まる。

「で、でも……課長だって、宮園さんと——」
「それとこれとは違う」

 ぴたりと間を詰められ、壁に背中が触れる。
 神崎の瞳がまっすぐに美咲を射抜く。

「俺は……お前が笑うのは、俺にだけでいいと思ってる」

 喉が熱くなり、呼吸が乱れる。
 何かを返そうとしても、声にならない。
 神崎はしばらくそのまま見つめ、それから小さく息を吐いた。

「……もう行け。資料は後で確認する」

 背を向けた彼の姿は、いつも通り冷静なようで、どこか不安定にも見えた。

 

 会議室を出た美咲は、胸の鼓動が落ち着かないまま自席に戻った。
 すると、少し離れた場所で、宮園と神崎が資料を手に話している姿が目に入る。
 宮園が笑い、神崎が軽く頷く——それは仕事のやり取りに見えた。
 けれど、今の自分の心には、別の感情を呼び起こす。

(……さっきの言葉は、本気なの? それとも一時的な感情?)

 逆転したはずの嫉妬は、また別の形で胸に渦を巻き始めていた。