神谷が立ち上がり、私の横に並んだ。
彼はにこやかな笑みを崩さず、しかし視線は司から逸らさない。
「誤解を招く場じゃないと、おっしゃる通りです。――でも、僕はただ彼女と話していただけですよ」
「そうか」司の声は低く、感情を押し殺していた。
だが、指先がわずかに拳を握る仕草を、私は見逃さなかった。
「帰るぞ、沙羅」
「え?」
「ここは俺が迎えに来た場所だ」
「迎えなんて頼んでない」
私が反発すると、神谷が間髪入れずに口を挟む。
「元夫婦の距離感って、難しいですね」
冗談めかしているのに、その声には挑発が滲んでいた。
司の目が一瞬、鋭さを増す。
「君は……境界を踏み越える癖があるようだな」
「業界にいると、境界は曖昧になりますから」
冷たい火花のような沈黙が落ちた。
私はたまらずグラスを置き、バッグを手に取る。
「私、帰るわ。――一人で」
その一言で、二人とも動きを止めた。
司が息を吸い込む音が聞こえ、しかし何も言わず背を向けた。
翌朝、葵から電話が入った。
「ねぇ、昨夜のことネットに出てるよ」
「……は?」
「『元夫と現恋人? バーで三角関係修羅場』って。写真もある」
心臓が凍りつく。
スマホに送られてきたリンクを開くと、私と神谷、そして司が並んでいる写真が載っていた。
角度によっては、まるで二人の男に奪い合われているように見える。
吐き気がするような嫌悪感と、不安が同時にこみ上げる。
司はこの写真を見ただろうか。
***
午後、司から電話があった。
「会いたい。……いや、会う必要がある」
低く抑えられた声。拒む理由も浮かばないまま、私は了承してしまった。
待ち合わせは、篠宮グループ本社近くの高層ビルラウンジだった。
到着すると、司は既に窓際の席に座っていた。
都会の街並みを背に、深く組まれた脚と腕。
その姿は冷たく美しいのに、目だけが鋭く光っていた。
「記事は見た」
「……私のせいじゃない」
「わかっている。だが、君は狙われている」
「だからって、あなたに関係あるの?」
私が言い切ると、司は一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻した。
「関係ないと思ったことは、一度もない」
心臓が跳ねた。
その一言が、何よりも重く響く。
「……あなたには、美香さんがいるでしょう」
「美香は俺の秘書だ」
「でも、世間では愛人だって」
「世間は事実よりも噂を好む」
短く言い切るその声に、苛立ちと何か別の感情が混ざっていた。
「……じゃあ、なぜわざわざ彼女と私の前に現れたの」
「試した」
「何を?」
「俺を、まだ見るかどうか」
喉が鳴る。
彼は立ち上がり、私の正面まで歩いてきた。
手がテーブルにかかり、距離が一気に縮まる。
「俺は、君が他の男に笑いかけるのを見たくない」
「……嫉妬?」
「そう言ってもいい」
耳元で囁く声に、身体が固まった。
彼はそれ以上近づかず、ゆっくりと身を引いた。
「この件は俺が収める。ただし、神谷とは会うな」
「命令しないで」
「頼んでいる」
その言い方が、かえって私の胸を締め付けた。
ビルを出ると、外は夜の匂いが濃くなっていた。
街灯の下、スマホに新しい通知が入る。
神谷からのメッセージ――
『今度は、二人きりで会いましょう』
指先が、画面の上で止まった。
送信も削除もできず、ただ光る文字を見つめていた。
背後から、人の気配。
振り返れば、少し離れた場所に司が立っていた。
目が合うと、彼は何も言わず、ただゆっくりと車に乗り込んでいった。
その背中が遠ざかるたびに、胸の奥で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。

