玄関ホールに、ヒールの音が虚しく響く。
大理石の床、壁に飾られた高価な絵画、冷たい空気。
この家で過ごした三年間の全てが、ひとつのスーツケースに収まってしまったことが、なんだか滑稽に思えた。
「お車の用意ができております、奥様――いえ、沙羅様」
執事の藤堂が、言い慣れた呼び方を修正し、深々と頭を下げる。
私は微笑もうとしたが、うまくいかない。
奥様、と呼ばれることはもう二度とない。
その事実が、思っていた以上に胸を締めつけた。
「ありがとう、藤堂さん。……元気でね」
「沙羅様も、どうかお元気で」
黒塗りの車のドアが閉まり、静かに屋敷の門が遠ざかっていく。
窓の外、暗闇に沈むあの家は、まるで何事もなかったかのように佇んでいた。
新しく借りたマンションは、白を基調としたコンパクトな間取りだった。
広さは屋敷の応接室より狭いが、誰にも干渉されない自由がある。
高層階のバルコニーからは、夜景が宝石のように瞬いて見えた。
「沙羅、本当に離婚したんだ……信じられない」
ソファに腰掛け、私の向かいでワイングラスを揺らすのは大学時代からの友人、葵だ。
彼女はファッション誌の編集者で、華やかな人脈を持っている。
「離婚届に判を押したとき、どんな気持ちだった?」
「……終わったんだな、って。それだけ」
「泣かなかったの?」
「泣く理由、なかったから」
口ではそう言ったけれど、本当は泣きたかった。
でも、あの人の前では一滴も見せたくなかった。
「じゃあさ、これからは思いっきり楽しもうよ。うちの業界のパーティー、今度連れてってあげる。いい男、たくさんいるから」
「……うん」
曖昧に頷いた私に、葵はにやりと笑った。
パーティー会場は、都内の高級ホテル最上階。
シャンデリアが煌めき、グラスを持った男女が楽しげに談笑している。
俳優、モデル、経営者――華やかさと自信に満ちた人々ばかりだ。
「沙羅さんですよね? 初めまして、映画プロデューサーの神谷です」
背の高い男性が、にこやかに手を差し出した。
年齢は三十代半ば、笑うと目尻に皺が寄る柔らかい雰囲気。
彼の差し出した手を握ると、その掌が温かいことに少し驚いた。
「葵さんからお話は聞いてます。お綺麗だって」
「……そんな、褒めすぎです」
「いや、本当に。――もし良ければ、今度食事でも」
社交辞令のような誘いに、私は微笑で応じた。
心の奥で、こんなやりとりは何度も見てきたことを自覚しながら。
夜が更けるにつれ、男性たちから向けられる視線や言葉が増えていく。
でも、そのどれもが心に響かない。
頭の片隅には、無表情でワインを口にする司の姿が浮かんでいた。
数日後、葵が雑誌を持って私の部屋に来た。
「見てこれ。沙羅、載ってるよ」
ページを開くと、先日のパーティーで神谷と話している私の写真があった。
“元社長夫人、華やかな社交界デビュー”という見出し。
胸の奥に冷たいものが落ちる。
「でも、悪くない記事だよ。『新しい恋の噂も』って、良い宣伝になるじゃん」
「……宣伝、ね」
私はページから視線を逸らし、窓の外を見た。
沈む夕陽が高層ビルの隙間から差し込んでいる。
「そういえば――」と葵が声を潜めた。
「司さん、まだ例の愛人と続いてるらしいよ」
鼓動が一瞬止まった気がした。
「……続いてるって、誰から?」
「うちの編集長。業界の飲み会で噂してたって」
愛人。
三年前から耳にしてきたその言葉が、今もなお彼を縛っていることに、言いようのない苛立ちが込み上げた。
自由になったはずなのに、私はまだあの人の影から逃れられない――。
大理石の床、壁に飾られた高価な絵画、冷たい空気。
この家で過ごした三年間の全てが、ひとつのスーツケースに収まってしまったことが、なんだか滑稽に思えた。
「お車の用意ができております、奥様――いえ、沙羅様」
執事の藤堂が、言い慣れた呼び方を修正し、深々と頭を下げる。
私は微笑もうとしたが、うまくいかない。
奥様、と呼ばれることはもう二度とない。
その事実が、思っていた以上に胸を締めつけた。
「ありがとう、藤堂さん。……元気でね」
「沙羅様も、どうかお元気で」
黒塗りの車のドアが閉まり、静かに屋敷の門が遠ざかっていく。
窓の外、暗闇に沈むあの家は、まるで何事もなかったかのように佇んでいた。
新しく借りたマンションは、白を基調としたコンパクトな間取りだった。
広さは屋敷の応接室より狭いが、誰にも干渉されない自由がある。
高層階のバルコニーからは、夜景が宝石のように瞬いて見えた。
「沙羅、本当に離婚したんだ……信じられない」
ソファに腰掛け、私の向かいでワイングラスを揺らすのは大学時代からの友人、葵だ。
彼女はファッション誌の編集者で、華やかな人脈を持っている。
「離婚届に判を押したとき、どんな気持ちだった?」
「……終わったんだな、って。それだけ」
「泣かなかったの?」
「泣く理由、なかったから」
口ではそう言ったけれど、本当は泣きたかった。
でも、あの人の前では一滴も見せたくなかった。
「じゃあさ、これからは思いっきり楽しもうよ。うちの業界のパーティー、今度連れてってあげる。いい男、たくさんいるから」
「……うん」
曖昧に頷いた私に、葵はにやりと笑った。
パーティー会場は、都内の高級ホテル最上階。
シャンデリアが煌めき、グラスを持った男女が楽しげに談笑している。
俳優、モデル、経営者――華やかさと自信に満ちた人々ばかりだ。
「沙羅さんですよね? 初めまして、映画プロデューサーの神谷です」
背の高い男性が、にこやかに手を差し出した。
年齢は三十代半ば、笑うと目尻に皺が寄る柔らかい雰囲気。
彼の差し出した手を握ると、その掌が温かいことに少し驚いた。
「葵さんからお話は聞いてます。お綺麗だって」
「……そんな、褒めすぎです」
「いや、本当に。――もし良ければ、今度食事でも」
社交辞令のような誘いに、私は微笑で応じた。
心の奥で、こんなやりとりは何度も見てきたことを自覚しながら。
夜が更けるにつれ、男性たちから向けられる視線や言葉が増えていく。
でも、そのどれもが心に響かない。
頭の片隅には、無表情でワインを口にする司の姿が浮かんでいた。
数日後、葵が雑誌を持って私の部屋に来た。
「見てこれ。沙羅、載ってるよ」
ページを開くと、先日のパーティーで神谷と話している私の写真があった。
“元社長夫人、華やかな社交界デビュー”という見出し。
胸の奥に冷たいものが落ちる。
「でも、悪くない記事だよ。『新しい恋の噂も』って、良い宣伝になるじゃん」
「……宣伝、ね」
私はページから視線を逸らし、窓の外を見た。
沈む夕陽が高層ビルの隙間から差し込んでいる。
「そういえば――」と葵が声を潜めた。
「司さん、まだ例の愛人と続いてるらしいよ」
鼓動が一瞬止まった気がした。
「……続いてるって、誰から?」
「うちの編集長。業界の飲み会で噂してたって」
愛人。
三年前から耳にしてきたその言葉が、今もなお彼を縛っていることに、言いようのない苛立ちが込み上げた。
自由になったはずなのに、私はまだあの人の影から逃れられない――。

