司からの短いメッセージ――『無理はするな』
あの夜、私はその言葉を何度も繰り返し眺めていた。
優しさなのか、社交辞令なのか、判別できない一文。
でも、その一文だけで一晩眠れなくなる自分が、情けなかった。
数日後、葵から連絡が入った。
『来週、篠宮グループの創立記念パーティーがあるんだって。招待状、私の編集部にも来たよ』
「私が行く理由なんてないわ」
『逆に行かない理由もないでしょ』
その言葉に、胸がざわめく。
会場にはきっと司もいる。
そして、また美香の姿も――。
結局、私は葵に押し切られる形で出席を決めた。
会場はホテル最上階の大ホール。
シャンデリアの光が壁の金箔装飾を照らし、グラスを持った招待客たちの笑い声が反響している。
入場してすぐ、遠くに司の姿が見えた。
黒のタキシードに身を包み、周囲の人々に笑顔を向けている。
その横には、美香――ではなかった。
見知らぬ女性が、彼の腕に軽く手を添えて立っていた。
胸の奥がひやりと冷える。
女性は、ファッション業界で名の知れた若手デザイナーらしい。
司は彼女の話に耳を傾け、時折、柔らかく笑っていた。
「……あれ、美香じゃないのね」
横の葵が囁く。
「誰でもいいのよ、あの距離感じゃ」
視線を逸らそうとしても、どうしても気になってしまう。
あの腕の位置、笑うタイミング、視線の温度――全部が私の知っている司ではないようで、けれど私だけが知っている司の一部のようでもあった。
少し後、会場の中央付近で人の波が動いた。
司がこちらに近づいてくる。
その隣には、さっきのデザイナー。
「……沙羅」
司は一瞬だけ私を見て、すぐ横の女性に視線を戻す。
「紹介しよう。彼女は新しいブランドの責任者で――」
「ご紹介は結構です」
遮るように言うと、女性は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで去っていった。
「相変わらず礼儀正しいな」司が皮肉を口にする。
「あなたこそ、人前で見せつける趣味でもできたの?」
「見せつける? 俺はただ話していただけだ」
「ふぅん」
口調は冷たく、でも胸の内側では熱が渦を巻いていた。
その後、会場の隅で葵と話していると、司がまた別の女性と談笑しているのが見えた。
背の高いモデル風の女性で、彼の肩に手を置いて笑っている。
その光景が視界に入った瞬間、心臓が跳ねる。
指先まで血が巡るような感覚と、同時に押し寄せる苛立ち。
私は思わず神谷に連絡を入れていた。
『今、ホテルのパーティーにいます。もし近くなら顔を出しませんか』
数十分後、神谷が会場に現れた。
彼の登場に周囲がざわつく。
神谷は迷いなく私の隣に来て、シャンパンを手渡してきた。
「誘ってくれて光栄だな」
「ちょっと……助けてほしかっただけ」
その会話の途中で、背後から低い声が響いた。
「楽しそうだな」
振り向けば、司が立っていた。
視線は神谷に向けられ、その奥に明らかな棘が光っている。
「何か問題でも?」神谷が軽く笑う。
「いや。ただ――相手を選べと言っている」
「選ぶのは彼女ですよ」
二人の間にまた見えない火花が散った。
私はその場を離れようとしたが、司の手が私の手首を掴む。
「……少し話そう」
会場を抜け、静かな控室に入る。
ドアが閉まる音がやけに大きく響いた。
「さっきのは何だ」
「あなたこそ、さっきのは何」
「俺は仕事だ」
「私だって仕事よ」
「嘘だ」
低い声に押され、息が詰まる。
司は一歩近づき、視線を真っ直ぐに落とした。
「俺は……お前が他の男といるのが耐えられない」
「じゃあ、どうしてあんな風に私の前で女の人と笑っていたの?」
「……君が、俺を見てくれるか試した」
その一言に、心臓が強く打つ。
「最低」
「そうだな」
自嘲するように笑い、司は私の頬に触れた。
「だが、君はちゃんと見ていた」
触れられた場所が熱を帯びる。
でも、まだ信じ切れない。
「試すようなこと、もうしないで」
「約束はできない」
「……」
「俺は君を取り戻すまで、手段を選ばない」
その宣言が、怒りと同時に胸の奥の何かを揺らした。

