窓ガラスを叩く雨粒が、夜の静寂を乱していた。
広すぎるダイニングルームの中央に置かれた長いテーブル。向かい合って座る私と彼の間には、温められたスープと、まだ湯気を立てているステーキが置かれているはずだった。けれど、食欲などとうに失せていた。
「……離婚してほしいの」
口に出した瞬間、胸の奥がきゅうと縮む。
彼――篠宮司は、銀のフォークを静かに皿に置き、ゆっくりと顔を上げた。
漆黒の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。何の感情も読み取れないその瞳に、背筋がぞくりとする。
「……わかった」
たった一言。それだけ。
驚くほど冷静で、揺れのない声。
私は小さく瞬きをし、手の中のナイフとフォークを置いた。指先がかすかに震えている。
――やっぱり、私たちは終わっていたのだ。
三年前、二十一歳の私は、この人と結婚した。
大手財閥の御曹司であり、三十歳にしてグループの中核企業の社長を務める男。
政略結婚だった。けれど、私は心のどこかで期待していた。
幼い頃から新聞や業界誌に載る彼を、写真越しに見てきた。冷たそうで、完璧で、どこか手の届かない存在。それでも憧れは募るばかりで――結婚話が舞い込んだときは、夢のように思った。
けれど、夢はすぐに現実に変わった。
婚姻届を出した日、司は私にこう言ったのだ。
『お互い、無理はしないようにしよう。必要以上に干渉はしない』
それは優しさではなく、距離を置くための宣言だった。
私はうなずき、その約束を守り続けた。
朝は別々に出勤し、夜は同じ屋敷に戻っても、食事を共にすることは稀。誕生日や記念日でさえ、彼は仕事か外部の会食を優先した。
そして、いつしか社交界や業界紙で囁かれるようになった――
「社長には昔からの愛人がいるらしい」と。
「……本当に、それでいいの?」
気付けば私は問い返していた。
司はワインを口に含み、わずかに眉をひそめただけだった。
「君がそう望むなら、俺は反対しない」
望む? 本当に私が望んでいると、思っているの?
胸の奥に渦巻く思いが、言葉になる前に喉で絡まって消えていく。
カトラリーが静かに重なる音だけが、広い部屋に響く。
雨脚は強くなり、窓ガラスに無数の水の筋が描かれていた。
「……手続きは秘書に任せる。君は荷物をまとめてくれ」
事務的に告げる声。私は何も返さず、うつむいた。
ワインの赤が、テーブルクロスに映って滲んで見える。
それが涙なのか、光の加減なのか、自分でもわからなかった。
――結婚して三年、一度も「愛している」と言われたことはなかった。
抱きしめられることも、手を握られることも。
私に向けられるのは、いつも冷たく整った視線だけ。
だからこそ、この言葉を口にする日が来るとわかっていたはずなのに、胸の痛みは想像以上だった。
部屋に戻り、クローゼットを開ける。
色とりどりのドレスやスーツが並ぶその中に、結婚当初に買ってもらった薄桃色のワンピースがあった。
着る機会は一度きり。あの日の私は、きっと笑っていた。
司の視線が、少しだけ優しく見えた気がして――それだけで舞い上がってしまったのだ。
あの瞬間の自分を思い出し、苦笑が漏れる。
愚かだった。
愛されていないと知りながら、信じたくて、証拠を探して、そして何も見つけられなかった。
窓の外で雷鳴が響く。
私は小さくため息をつき、スーツケースに服を詰め始めた。
背後の扉がノックもなく開き、司が立っていた。
黒いスーツのまま、壁にもたれて私を見下ろす。
「必要なものは、全部持って行け」
「……ありがとう」
言葉とは裏腹に、胸の奥では叫んでいた。
――本当は、引き止めてほしかった。
「行くな」と、たった一言でもいいから。
けれど、司は何も言わなかった。
私は視線を合わせず、ただ黙々と荷造りを続けた。
それが、私たちの最後の夜だった。
広すぎるダイニングルームの中央に置かれた長いテーブル。向かい合って座る私と彼の間には、温められたスープと、まだ湯気を立てているステーキが置かれているはずだった。けれど、食欲などとうに失せていた。
「……離婚してほしいの」
口に出した瞬間、胸の奥がきゅうと縮む。
彼――篠宮司は、銀のフォークを静かに皿に置き、ゆっくりと顔を上げた。
漆黒の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。何の感情も読み取れないその瞳に、背筋がぞくりとする。
「……わかった」
たった一言。それだけ。
驚くほど冷静で、揺れのない声。
私は小さく瞬きをし、手の中のナイフとフォークを置いた。指先がかすかに震えている。
――やっぱり、私たちは終わっていたのだ。
三年前、二十一歳の私は、この人と結婚した。
大手財閥の御曹司であり、三十歳にしてグループの中核企業の社長を務める男。
政略結婚だった。けれど、私は心のどこかで期待していた。
幼い頃から新聞や業界誌に載る彼を、写真越しに見てきた。冷たそうで、完璧で、どこか手の届かない存在。それでも憧れは募るばかりで――結婚話が舞い込んだときは、夢のように思った。
けれど、夢はすぐに現実に変わった。
婚姻届を出した日、司は私にこう言ったのだ。
『お互い、無理はしないようにしよう。必要以上に干渉はしない』
それは優しさではなく、距離を置くための宣言だった。
私はうなずき、その約束を守り続けた。
朝は別々に出勤し、夜は同じ屋敷に戻っても、食事を共にすることは稀。誕生日や記念日でさえ、彼は仕事か外部の会食を優先した。
そして、いつしか社交界や業界紙で囁かれるようになった――
「社長には昔からの愛人がいるらしい」と。
「……本当に、それでいいの?」
気付けば私は問い返していた。
司はワインを口に含み、わずかに眉をひそめただけだった。
「君がそう望むなら、俺は反対しない」
望む? 本当に私が望んでいると、思っているの?
胸の奥に渦巻く思いが、言葉になる前に喉で絡まって消えていく。
カトラリーが静かに重なる音だけが、広い部屋に響く。
雨脚は強くなり、窓ガラスに無数の水の筋が描かれていた。
「……手続きは秘書に任せる。君は荷物をまとめてくれ」
事務的に告げる声。私は何も返さず、うつむいた。
ワインの赤が、テーブルクロスに映って滲んで見える。
それが涙なのか、光の加減なのか、自分でもわからなかった。
――結婚して三年、一度も「愛している」と言われたことはなかった。
抱きしめられることも、手を握られることも。
私に向けられるのは、いつも冷たく整った視線だけ。
だからこそ、この言葉を口にする日が来るとわかっていたはずなのに、胸の痛みは想像以上だった。
部屋に戻り、クローゼットを開ける。
色とりどりのドレスやスーツが並ぶその中に、結婚当初に買ってもらった薄桃色のワンピースがあった。
着る機会は一度きり。あの日の私は、きっと笑っていた。
司の視線が、少しだけ優しく見えた気がして――それだけで舞い上がってしまったのだ。
あの瞬間の自分を思い出し、苦笑が漏れる。
愚かだった。
愛されていないと知りながら、信じたくて、証拠を探して、そして何も見つけられなかった。
窓の外で雷鳴が響く。
私は小さくため息をつき、スーツケースに服を詰め始めた。
背後の扉がノックもなく開き、司が立っていた。
黒いスーツのまま、壁にもたれて私を見下ろす。
「必要なものは、全部持って行け」
「……ありがとう」
言葉とは裏腹に、胸の奥では叫んでいた。
――本当は、引き止めてほしかった。
「行くな」と、たった一言でもいいから。
けれど、司は何も言わなかった。
私は視線を合わせず、ただ黙々と荷造りを続けた。
それが、私たちの最後の夜だった。

