廊下に出た花蓮は、そのまま自室へ向かうつもりだった。
だが足が止まる。
背後の書斎からは、低く抑えた隼人の電話の声が漏れていた。

「……今夜はもうやめろ。余計なことはするな」
短い間。
「いや、俺が行く必要はない。……ああ、そういうことなら明日だ」

カチリと通話が切れる音がして、花蓮は息を詰めたまま踵を返す。
(誰と話しているの……? また“仕事”だって言うんでしょうね)

階段を上がり、二階の寝室へ。
この部屋は、結婚してから一度も隼人と同じ夜を過ごしていない。
ベッドは広く、シーツは冷え切っていた。
毛布に包まり、灯りを消しても、眠気は訪れなかった。



深夜、廊下の向こうから足音が近づく気配。
ドアの前で止まり、すぐに遠ざかっていく。
呼び止めたい衝動と、呼べない自分の心がせめぎ合う。
(来てくれたら、全部聞けたかもしれない)
(でも、来ないからこそ……何も聞かずに済むのかもしれない)

自嘲のような息が、暗闇に溶けた。



翌朝。
窓から射す冬の光が白く、部屋の空気を乾かしている。
花蓮はゆっくりと身を起こした。
隼人はもう出社したらしく、家は静まり返っていた。
テーブルの上に、昨夜のままのメモがないことを思い出す。
(きっと、処分した……)

その瞬間、胸に空洞が広がる。
問い質すことも、信じ切ることもできない自分が、何よりも嫌だった。



着替えを済ませて階下へ降りると、玄関で氷室が来客のように立っていた。
「奥様。社長は、本日遅くなると仰せでした」
淡々とした口調。
だがその瞳は、昨夜の衝突を知っているかのように深く澄んでいた。

「……そう。わかりました」
「奥様は、どうかご自愛ください」
氷室は一礼して去っていく。
その背中を見送りながら、花蓮は思った。

(この距離が、永遠に埋まらなかったら……私はどうなるの)

胸の奥で小さく鳴ったその問いは、まだ答えを持たなかった。