冬の夜は、屋敷を静かに閉じ込めていた。
外の庭は薄氷を張ったように白く、灯りがそこに落ちて淡く揺れる。
花蓮はリビングで読みかけの本を閉じた。隼人はまだ帰っていない。
最近はこの時間が当たり前になっていた。
(また氷室さんと一緒かしら)
その考えを振り払うように立ち上がり、温かいお茶を淹れ直そうとキッチンへ向かう。
ふと、廊下の奥の扉がわずかに開いているのに気づいた。隼人の書斎だ。
いつもは鍵がかかっている場所。
軽くノックをしてみたが、返事はない。
(……留守だから)
ほんの少しだけ、足が中へと踏み込んだ。
書斎は黒と深い木目で統一され、空気は静かに冷えていた。
机の上には整理された書類の束と、革のペンケース。
その隣、革トレイの上に一枚のメモ用紙があった。
淡いクリーム色の紙に、柔らかい丸みを帯びた文字。
――《明日の件、楽しみにしています。M》
花蓮の指先が震えた。
短い一文。差出人の名前はイニシャルだけ。
(……M。氷室真希の、M?)
そう思った瞬間、胸が熱くなり、視界がにじむ。
机の引き出しには他にもいくつかの封筒があり、見慣れない筆跡が並んでいた。
すべてに手を伸ばしたい衝動を必死に抑える。
そのとき、背後で低い声が落ちた。
「……何をしている」
振り向くと、扉の向こうに隼人が立っていた。
黒いコートの襟に夜気をまとい、目は冷たく光っている。
「勝手に入ったのか」
「扉が開いていたから……」
「だからと言って、許可なく入っていい理由にはならない」
低く押し殺した声。花蓮は一歩も引かずに視線を合わせた。
「このメモ……どういう意味ですか」
花蓮は紙を持ち上げる。手がわずかに震えていた。
隼人の瞳が一瞬だけ鋭く細められる。
「仕事だ」
「“楽しみにしています”が、ですか?」
「取引先との打ち合わせだ」
「なら、どうして差出人の名前がイニシャルだけなんです」
「関係ない」
短く切り捨てられ、胸の奥の何かが音を立てて割れた。
「……私には関係なくても、周りはそう思わないでしょう。もう噂になっているんです」
「噂に振り回されるのか」
「振り回されるつもりはありません。でも、あなたは何も説明しない」
「説明が必要だと思っているのか」
「ええ。だって、私は――あなたの妻ですから」
その一言に、隼人の眉間が深く寄る。
「妻なら俺を信じろ」
「信じたい。でも、あなたは私を信用していない」
「……」
「距離を置いて、何も話さない。氷室さんとばかり一緒にいて、私には背中しか見せない」
言い終わった瞬間、室内の空気がさらに冷えた。
隼人は机の角に片手を置き、低く言った。
「お前は俺を何だと思っている」
「わかりません。だから聞いているのに」
二人の視線がぶつかる。
その奥に、互いの苛立ちと、言葉にできない感情が渦巻いていた。
隼人は深く息を吐き、視線を逸らした。
「……もう遅い。寝ろ」
「まだ話は――」
「これ以上は、今は無理だ」
そう言ってコートを脱ぎ、書斎の奥へ歩み去る。
花蓮はしばらくその背中を見つめていたが、やがてメモを机に置き、静かに部屋を出た。
廊下に出ると、扉が重く閉まる音が響く。
(これが、初めての衝突……)
寝室に戻ったとき、鏡に映った自分の表情があまりにも強ばっていて、思わず目を逸らした。
外の庭は薄氷を張ったように白く、灯りがそこに落ちて淡く揺れる。
花蓮はリビングで読みかけの本を閉じた。隼人はまだ帰っていない。
最近はこの時間が当たり前になっていた。
(また氷室さんと一緒かしら)
その考えを振り払うように立ち上がり、温かいお茶を淹れ直そうとキッチンへ向かう。
ふと、廊下の奥の扉がわずかに開いているのに気づいた。隼人の書斎だ。
いつもは鍵がかかっている場所。
軽くノックをしてみたが、返事はない。
(……留守だから)
ほんの少しだけ、足が中へと踏み込んだ。
書斎は黒と深い木目で統一され、空気は静かに冷えていた。
机の上には整理された書類の束と、革のペンケース。
その隣、革トレイの上に一枚のメモ用紙があった。
淡いクリーム色の紙に、柔らかい丸みを帯びた文字。
――《明日の件、楽しみにしています。M》
花蓮の指先が震えた。
短い一文。差出人の名前はイニシャルだけ。
(……M。氷室真希の、M?)
そう思った瞬間、胸が熱くなり、視界がにじむ。
机の引き出しには他にもいくつかの封筒があり、見慣れない筆跡が並んでいた。
すべてに手を伸ばしたい衝動を必死に抑える。
そのとき、背後で低い声が落ちた。
「……何をしている」
振り向くと、扉の向こうに隼人が立っていた。
黒いコートの襟に夜気をまとい、目は冷たく光っている。
「勝手に入ったのか」
「扉が開いていたから……」
「だからと言って、許可なく入っていい理由にはならない」
低く押し殺した声。花蓮は一歩も引かずに視線を合わせた。
「このメモ……どういう意味ですか」
花蓮は紙を持ち上げる。手がわずかに震えていた。
隼人の瞳が一瞬だけ鋭く細められる。
「仕事だ」
「“楽しみにしています”が、ですか?」
「取引先との打ち合わせだ」
「なら、どうして差出人の名前がイニシャルだけなんです」
「関係ない」
短く切り捨てられ、胸の奥の何かが音を立てて割れた。
「……私には関係なくても、周りはそう思わないでしょう。もう噂になっているんです」
「噂に振り回されるのか」
「振り回されるつもりはありません。でも、あなたは何も説明しない」
「説明が必要だと思っているのか」
「ええ。だって、私は――あなたの妻ですから」
その一言に、隼人の眉間が深く寄る。
「妻なら俺を信じろ」
「信じたい。でも、あなたは私を信用していない」
「……」
「距離を置いて、何も話さない。氷室さんとばかり一緒にいて、私には背中しか見せない」
言い終わった瞬間、室内の空気がさらに冷えた。
隼人は机の角に片手を置き、低く言った。
「お前は俺を何だと思っている」
「わかりません。だから聞いているのに」
二人の視線がぶつかる。
その奥に、互いの苛立ちと、言葉にできない感情が渦巻いていた。
隼人は深く息を吐き、視線を逸らした。
「……もう遅い。寝ろ」
「まだ話は――」
「これ以上は、今は無理だ」
そう言ってコートを脱ぎ、書斎の奥へ歩み去る。
花蓮はしばらくその背中を見つめていたが、やがてメモを机に置き、静かに部屋を出た。
廊下に出ると、扉が重く閉まる音が響く。
(これが、初めての衝突……)
寝室に戻ったとき、鏡に映った自分の表情があまりにも強ばっていて、思わず目を逸らした。

