冬の午後、花蓮は書斎の窓辺で膝掛けを整えながら、机の上に置かれた厚みのある封筒を見つめていた。
白地に金の箔押しでホテルの紋章、その下に流麗な筆記体で「Charity Gala」と記されている。
差出人は国内有数の慈善団体。毎年年末に行われる社交界最大級のガラパーティだ。
封筒を開くと、招待状にはこうあった。
「神崎隼人・橘花蓮ご夫妻 ご臨席賜りたく――」
(……また、あの人と並んで)
手の中でカードがわずかに震えた。結婚してまだひと月、既にいくつものパーティに出席してきた。
だが、その度に耳に入るのは、隼人と氷室真希についての噂話ばかりだ。
会場は、丸天井に描かれたフレスコ画と巨大なシャンデリアが輝くホテルの大広間。
壁際には生演奏の弦楽四重奏が控え、中央にはシャンパンタワーがそびえる。
花蓮は深いワインレッドのドレスに、パールのイヤリングを合わせていた。鏡に映った自分は笑顔を浮かべていたが、その裏では鼓動が落ち着かない。
「……似合ってる」
背後から低い声がした。振り向くと、隼人が漆黒のタキシード姿で立っていた。
「ありがとうございます」
形式的に微笑むと、彼は自然に手を差し出す。
隣には氷室が控えていた。艶やかな黒のロングドレス、背筋は糸のように真っ直ぐ。まるで二人でひとつの絵を成しているかのように見えた。
入場と同時に、花蓮の耳には早くも囁き声が届く。
「奥様はお綺麗だけど……」「やっぱり社長と秘書の方がしっくり来るわね」
笑い声がシャンデリアの光に溶けて、薄く鋭く胸を刺した。
数人のゲストと挨拶を交わしながら歩くうち、花蓮は自然と人混みから外れていた。
その隙間を縫って、知り合いの夫人が近づいてくる。
「花蓮さん、本当に幸せそうね」
「……ありがとうございます」
「でも、ご存じかしら。神崎社長とあの秘書さん、もう十年以上の付き合いなんですって」
わざとらしい囁きと、唇に浮かぶ秘密めいた笑み。
「お仕事上のことですよね」
「ええ、もちろん。ただ……お似合いだと、誰もが思っているのではないかしら」
言葉を残して去っていく後ろ姿を見送り、花蓮は深く息を吸った。
胸の奥で、冷たいものと熱いものが同時に膨らんでいく。
グラスを手に会場中央を見渡すと、隼人と氷室が外国人ゲストと談笑しているのが目に入った。
氷室が軽やかに通訳を挟み、隼人の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
その表情は、花蓮が知る冷たい面差しとは違って見えた。
(……あんな顔、私には向けたことない)
心がざわめき、視線を逸らすようにガラス扉の向こう、バルコニーへ出た。
冬の夜気が頬を刺し、吐息が白くほどけていく。庭園の噴水がライトアップされ、遠くで音楽の調べがかすかに届いた。
「こんな所にいたのか」
背後から聞こえた隼人の声に、肩がわずかに跳ねた。
振り向くと、彼は二つのカップを持っていた。
「外は冷える。……紅茶だ」
湯気が立ち上り、指先に温もりが広がる。
「ありがとうございます」
小さく礼を言うと、隼人はガラス越しに会場を見やった。
「……誰かに何か言われたな」
「別に」
「嘘だ」
「……氷室さんと、楽しそうでしたね」
「仕事だ」
「そうでしょうね」
紅茶の香りと一緒に、沈黙が落ちた。
化粧室へ向かう途中、廊下の陰で数人の女性の笑い声が響いた。
「見た? 社長と秘書の距離感」「奥さんよりも呼吸が合ってる感じ」
「でも奥さん、綺麗よ。お人形みたい」
「だからこそ退屈されそうじゃない?」
一歩ごとに言葉が背中へ突き刺さる。
何も聞かなかったふりをして歩き続けたが、胸の奥ではじわじわと熱が募っていった。
パーティが終わり、帰路につく車内。
外の街灯が窓を流れ、二人の顔に淡い光と影を落とす。
「……何をそんなに不機嫌なんだ」
「不機嫌じゃありません」
「顔に出てる」
「なら、そういう顔をさせているのは誰でしょう」
隼人の眉がわずかに動く。
「氷室さんと仲が良いんですね」
「仕事だと何度言えば」
「周りはそう見ていません」
「周りの目が気になるのか」
「ええ。私の立場もありますから」
数秒の沈黙。
「……お前は俺の隣にいればいい。それで十分だ」
「それじゃ、私は置物と同じです」
会話はそこで途切れた。
車内の静寂は、ふたりの間の温度差をさらに際立たせた。
屋敷に戻ると、隼人は「明日は朝から会議だ」とだけ告げ、自室へと消えた。
花蓮は着替えを済ませても眠れず、窓辺に立つ。
外の街は冷たい光で満ちている。
どこかでまた、誰かがあの二人を見て何かを言っているのだろう。
それを否定できない自分に、苛立ちが静かに積もっていった。

