玄関の扉が閉まる前、氷室はほんの一瞬だけ花蓮の方へ視線を寄こした。
「お休みなさいませ、奥様」
声音は礼儀正しいのに、どこか距離の温度が含まれている。返事をするより早く、彼女は夜に溶けた。

リビングには花の香りと新しい家具の匂いが薄く漂っている。
花蓮は一人、グラスに水を注ぎ、窓の外の夜景へ息を落とした。山の肩口に街がまとわりつくように光り、星よりも都市の灯りが強い。
隼人の部屋の方から、低く短い通話の気配がする。何かを命じ、すぐ切る。扉が閉まり、静寂が戻る。

(……同じ家にいるのに、海の向こうみたい)

胸の奥に固い石が入ったようだった。
眠れずにシーツの端を指でさすっていると、部屋の壁掛け時計が二時を回る。ようやく浅い眠りが訪れたころ、目覚ましより少し早くドアがノックされた。

「支度しろ。午前中に本社、そのあとチャリティの打合せだ」

短い言葉だけを残して隼人は去った。
朝食のテーブルに座っても、彼はコーヒーを一口ふくんだだけで書類へ目を落とす。
「今日は黒いジャケットでいい。撮られる」
「……はい」
「車は十分後」

会話はそれで終わった。パンをほとんど噛まないうちに、時間だけが先へ進む。



本社前は、初冬の風が透明で鋭い。
車のドアが開いた途端、白いフラッシュが降ってきた。
「神崎社長、奥様のお気持ちは?」「ご結婚の決め手は?」「氷室秘書との関係は――」
質問が弾丸のように飛ぶ。視界が一瞬白く塗りつぶされ、花蓮は思わず足を止めた。

次の瞬間、視界が暗くなる。
隼人の肩が前に出て、彼のコートが花蓮の頭上にかぶさっていた。
「眩しいだろ」
耳元で低く言い、広げたコートの庇でフラッシュを遮る。
歩幅を合わせるように腰へ軽く手が回り、玄関まで影をつくる。

「――ありがとうございます」
思わず零れる。
「仕事だ」
隼人は事務的に答え、コートを彼女の肩に戻した。
だが、その手付きは妙に丁寧で、襟元が乱れないようわずかに指先が留まり、整える。
ひどく些細な仕草なのに、胸の石がわずかに角を丸くした。

エントランスホールの奥、専用エレベーターへ。
氷室が待っていた。表情は朝の空気のように澄み切っている。

「資料は整っております。十一時に基金の理事と面会、午後はドナー候補のレセプション、夜は――」
「夜は先方に任せろ」
隼人が歩きながら応じる。氷室の視線が一度だけ花蓮をかすめた。
「奥様は、午後のレセプションだけご同席を。会場が混むので、事前に動線を共有いたします」
「動線?」
「フロアプランはこちらに。――人目は、疲弊の原因になりますから」

さらりと言って、氷室は地図を差し出す。
紙の端が指に触れた。冷たい。
「ありがとうございます」
礼を言うと、氷室はほんの僅かに頷いた。

エレベーターの鏡には、三人の姿が映る。隼人は資料を読み、氷室は微動だにせず、花蓮だけが鏡のうちと外の光に瞬いていた。
小さな箱の中で、時計の針の音がやけに大きく感じられる。



午後のレセプション会場は、ガラスの箱庭のようだった。低い冬の陽が壁一面の窓から差し込み、緑の装花が光を弾く。
「神崎社長、こちら水城レナ様です」
司会が紹介した女性は、雑誌で見かけるモデルだった。切り込むような視線と、唇に自信の色。

「久しぶりね、神崎さん。前にパーティで、よく――」
「仕事中だ」
隼人は淡々と遮る。
「まあ、相変わらず。噂の奥様は……」
レナの視線が花蓮へ滑る。「可憐で、守ってあげたくなるタイプ」

笑みの輪郭が喉に刺さる。
「ありがとうございます」
花蓮は微笑で受け止めた。
レナは肩をすくめ、爪先で床を一度だけ打ち、別のグループへ戻っていく。

「気にするな」
隼人が低く言った。
「気にしてません」
即座に返すと、彼の瞳がほんの一瞬だけ揺れたように見えた。
「……フロアが混む。ここで待っていろ。すぐ戻る」
彼はスタッフに短く指示を飛ばし、理事のいる一角へ向かう。氷室も脇につく。

花蓮は窓際に立った。ガラスには薄く自分の顔が映り、その隣で隼人と氷室が肩を並べて歩く姿が小さく揺れている。
距離は遠い。だけど、息を合わせるテンポは美しく一致していた。

(最初から、完成しているみたい)

胸の奥が、きゅ、と緩やかに締まる。
耐えきれずに人の波から外れ、バルコニーへ出た。冬の光が薄く冷たい。

「外は冷えます」
背後から声がした。振り返ると、スタッフの青年が毛布を差し出してくれた。
「ありがとうございます。少しだけ……」
毛布を肩に掛けると、体温が戻ってくる。
都市のざわめきが遠い。ここだけ音が薄い。

ドアが開く気配。
「何してる」
隼人だった。彼は一瞥で毛布を確かめ、花蓮の肩にもう一度ぴったりと掛け直す。
「風が強い。髪、ほどける」
指先が後れ毛を耳へかける。
その仕草はあまりに自然で、あまりに親密で――けれど顔は変わらない。

「……すぐ戻る。足元、気をつけろ」
それだけ言って室内へ戻る。
花蓮は毛布の端を強く握った。
(優しい。――のに、触れた手だけが、全部だ)



夜。
帰宅した家は、昼よりも広く感じられた。静かさに音が吸い込まれていく。
ふと、何かを作って待ちたくなって、キッチンへ立つ。
レシピ本をめくり、野菜のスープを鍋にかける。玉ねぎが透き通り、人参の甘い香りが立った。

「……おかえりなさい」
背後から足音。振り返ると隼人がネクタイを緩めていた。
「何だ、それ」
「スープです。……お召し上がりになりますか」
躊躇いながら器を差し出すと、彼は無言で受け取り、ひと口。

数秒。
「悪くない」
顔を上げる前に、短く評価が落ちた。
胸の石に、かすかな温度が灯る。
「よかった……」
「明日の午前は自宅で会議だ。騒がしくなる。気にするな」
「はい」

そのとき、隼人のスマホが震えた。
「……今はやめろ。ここには来るな」
低く押し殺した声。
花蓮の手が止まる。視線を上げる勇気が出ない。
(――誰に?)

「すぐ折り返す」
通話を切ると、彼は器を流しに置いた。
「片付ける」
「私が」
「いい」
二言で引き取って、クールに動く。
花蓮は、何も言わずに背中を見送った。



夜更け。
廊下の突き当たり、隼人の書斎のドアがわずかに開いている。漏れる光に、足が引き寄せられた。
内側で声が二つ。隼人の低音と、氷室の落ち着いた声。

「――警備の配置を。彼女の動線は最短で」
「承知しました。ですが奥様に知られれば――」
「知られる必要はない。負担をかけるな。……弱点を晒すわけにはいかない」

弱点。
その言葉だけが、くっきりと胸に刺さった。
花蓮は息を呑み、足音を殺してその場を離れた。

(私は……弱点)

頭の中で、昼のフラッシュとコートの影が重なる。
守られているのだ、と理性は言う。
けれど感情は別の形に輪郭を与える――「扱われている」。
守られることと、遠ざけられることの隙間で、心はゆっくりと迷子になる。

寝室に戻ると、窓外の夜景はさっきより白く強い。
横になると、広いベッドの片側が冷えていくのがわかる。
天井を見つめ、掌を胸に置く。
鼓動は思いのほか早い。誰のために速くなっているのか、自分でもわからない。

(期待しない。……期待なんて、しない)

呟いて、目を閉じる。
言葉は氷のように固いのに、瞼の裏にはバルコニーでの指先の温度が残っている。
遠いところで、書斎のドアの閉まる音がした。
街の灯りがかすかに瞬き、夜は長く、静かに降りてくる。

――それでも、ほんの、ほんの一瞬だけ。
眠りに落ちる刹那、花蓮は思った。
(好きにはならない。……けれど、憎みきれるほど遠くにも、行けない)

体の奥で、微かなため息が溶けた。
冷たい新婚生活の二週間目の夜が、音もなく終わっていった。