橘家と神崎家の婚約は、翌週には社交界での話題の中心になっていた。
正式な発表は父の手配による晩餐会――表向きは両家の友好を深めるためのものだが、実際にはほぼ婚約披露と変わらない。
花蓮は鏡台の前で淡いブルーのドレスを整えていた。肩から流れるシフォンが波のように揺れ、首元には母から譲られた真珠のネックレス。
侍女が「お綺麗です」と微笑むが、花蓮の胸は重かった。
(今日、あの人と並んで立つのか……)
会場のホテルは、天井まで届くシャンデリアと磨き上げられた大理石の床。
客たちの笑い声とグラスの触れ合う音が、金色の照明に溶けていた。
到着した瞬間、花蓮は多くの視線に晒された。
「お噂通り、美しい令嬢だわ」「でも神崎社長のお相手って……」
耳に入ってくる囁きは、興味と好奇心、そして少しの羨望。
隼人はすでに会場中央に立っており、ブラックのタキシードが似合いすぎるほどだった。
その隣には、やはり氷室真希が控えている。濃紺のドレスにシルバーのアクセサリーを合わせ、秘書というより女優のような存在感。
「来たな」
隼人の低い声。歩み寄る彼の視線は、周囲の目を完全に無視して花蓮だけを捉えている。
「……ご機嫌よう」
形式的に一礼すると、隼人は何のためらいもなく花蓮の腰に手を回した。
瞬間、背筋が跳ね上がる。
「な、何を――」
「挨拶だ。婚約者としての」
耳元にかかる声は低く、熱を帯びていた。
周囲の人々が微笑ましげに二人を見ている。
氷室だけが、静かな瞳で花蓮を観察していた。
しばらく歓談が続き、隼人は商談相手の男性と話し始めた。花蓮はその間、友人たちに囲まれる。
「花蓮、本当に隼人さんと結婚するの? あの人、すごくモテるのに」
「社長秘書の氷室さんって、特別な存在らしいわよ」
悪意ではない、けれど確かに刺さる言葉。
視線を感じて振り向くと、氷室が一人でシャンパングラスを持って立っていた。
花蓮が近づくと、彼女は微笑にも見える口元をわずかに動かす。
「お似合いですね。……神崎社長と」
「お世辞は結構です」
「お世辞ではありません。ただ、社長は非常にお忙しい方。奥様になるには、強さが必要です」
「強さ、ですか」
「ええ。嫉妬や不安に負けない強さ。でなければ……」
氷室は言葉を切り、グラスの縁に指を滑らせた。
「社長の傍に立ち続けることはできません」
挑発的なその瞳に、花蓮は一歩も退かなかった。
「心配しなくても、私はあなたと競うつもりはありません」
「競う?」
氷室の瞳がわずかに揺れる。「――面白い方ですね」
そこへ隼人が戻ってきた。花蓮の肩を軽く抱き、「行くぞ」と促す。
「どこへ?」
「挨拶回りだ。俺の妻になる人間として、皆に顔を覚えてもらわないとな」
歩きながら、隼人は低く囁く。
「さっき、氷室と何を話していた」
「別に、大したことは」
「……あいつは口が鋭い。気をつけろ」
一瞬の沈黙の後、彼はさらに声を落とした。
「お前は、俺の隣にいればいい。それだけでいいんだ」
その言葉は命令にも聞こえた。
花蓮は心の奥で反発を覚えながらも、冷静な顔を保ち続けた。
晩餐会の終盤、隼人はマイクの前に立った。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
淡々とした挨拶の後、彼は横に立つ花蓮の手を取り、そのまま唇を近づけた。
ざわめきが広がる。
「――っ!」
驚きで体が固まったまま、花蓮は逃げられなかった。
視界の端で、氷室が微笑とも冷笑ともつかない表情をしているのが見えた。
隼人は唇を離すと、平然と会場を見回し、「これが、俺の婚約者です」と言い切った。
拍手が湧き起こり、花蓮の心臓は乱れていた。
(――逃げ場が、どこにもない)
そう悟った瞬間、胸の奥に静かな決意が芽生えた。
従うつもりはない。
この婚約は、必ず私の意志で形を変える――。
正式な発表は父の手配による晩餐会――表向きは両家の友好を深めるためのものだが、実際にはほぼ婚約披露と変わらない。
花蓮は鏡台の前で淡いブルーのドレスを整えていた。肩から流れるシフォンが波のように揺れ、首元には母から譲られた真珠のネックレス。
侍女が「お綺麗です」と微笑むが、花蓮の胸は重かった。
(今日、あの人と並んで立つのか……)
会場のホテルは、天井まで届くシャンデリアと磨き上げられた大理石の床。
客たちの笑い声とグラスの触れ合う音が、金色の照明に溶けていた。
到着した瞬間、花蓮は多くの視線に晒された。
「お噂通り、美しい令嬢だわ」「でも神崎社長のお相手って……」
耳に入ってくる囁きは、興味と好奇心、そして少しの羨望。
隼人はすでに会場中央に立っており、ブラックのタキシードが似合いすぎるほどだった。
その隣には、やはり氷室真希が控えている。濃紺のドレスにシルバーのアクセサリーを合わせ、秘書というより女優のような存在感。
「来たな」
隼人の低い声。歩み寄る彼の視線は、周囲の目を完全に無視して花蓮だけを捉えている。
「……ご機嫌よう」
形式的に一礼すると、隼人は何のためらいもなく花蓮の腰に手を回した。
瞬間、背筋が跳ね上がる。
「な、何を――」
「挨拶だ。婚約者としての」
耳元にかかる声は低く、熱を帯びていた。
周囲の人々が微笑ましげに二人を見ている。
氷室だけが、静かな瞳で花蓮を観察していた。
しばらく歓談が続き、隼人は商談相手の男性と話し始めた。花蓮はその間、友人たちに囲まれる。
「花蓮、本当に隼人さんと結婚するの? あの人、すごくモテるのに」
「社長秘書の氷室さんって、特別な存在らしいわよ」
悪意ではない、けれど確かに刺さる言葉。
視線を感じて振り向くと、氷室が一人でシャンパングラスを持って立っていた。
花蓮が近づくと、彼女は微笑にも見える口元をわずかに動かす。
「お似合いですね。……神崎社長と」
「お世辞は結構です」
「お世辞ではありません。ただ、社長は非常にお忙しい方。奥様になるには、強さが必要です」
「強さ、ですか」
「ええ。嫉妬や不安に負けない強さ。でなければ……」
氷室は言葉を切り、グラスの縁に指を滑らせた。
「社長の傍に立ち続けることはできません」
挑発的なその瞳に、花蓮は一歩も退かなかった。
「心配しなくても、私はあなたと競うつもりはありません」
「競う?」
氷室の瞳がわずかに揺れる。「――面白い方ですね」
そこへ隼人が戻ってきた。花蓮の肩を軽く抱き、「行くぞ」と促す。
「どこへ?」
「挨拶回りだ。俺の妻になる人間として、皆に顔を覚えてもらわないとな」
歩きながら、隼人は低く囁く。
「さっき、氷室と何を話していた」
「別に、大したことは」
「……あいつは口が鋭い。気をつけろ」
一瞬の沈黙の後、彼はさらに声を落とした。
「お前は、俺の隣にいればいい。それだけでいいんだ」
その言葉は命令にも聞こえた。
花蓮は心の奥で反発を覚えながらも、冷静な顔を保ち続けた。
晩餐会の終盤、隼人はマイクの前に立った。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
淡々とした挨拶の後、彼は横に立つ花蓮の手を取り、そのまま唇を近づけた。
ざわめきが広がる。
「――っ!」
驚きで体が固まったまま、花蓮は逃げられなかった。
視界の端で、氷室が微笑とも冷笑ともつかない表情をしているのが見えた。
隼人は唇を離すと、平然と会場を見回し、「これが、俺の婚約者です」と言い切った。
拍手が湧き起こり、花蓮の心臓は乱れていた。
(――逃げ場が、どこにもない)
そう悟った瞬間、胸の奥に静かな決意が芽生えた。
従うつもりはない。
この婚約は、必ず私の意志で形を変える――。

