秋の夕暮れは、街を淡い琥珀色に染めていた。
橘家本邸の応接室は高い天井とシャンデリアに守られた静けさの中、重厚な空気を纏っている。
父の正面に座った花蓮は、カップの縁に指をかけたまま、じっと兄の表情を窺った。兄の拓真はグループ副社長として父の右腕を務めており、仕事のときは滅多に表情を崩さない。今日もその顔は真剣そのものだった。

「花蓮。――神崎家との縁談を、正式に進めることにした」

父の低い声が部屋の空気を震わせた。
花蓮は瞬きを忘れたまま、手元のカップを見つめる。
「……神崎家って、隼人さんの家ですか?」

「そうだ。彼は今、グループ本社の社長だ。年齢はまだ二十代半ばだが、経営手腕は群を抜いている。お前にとっても悪い話ではない」

悪い話ではない――。父はそう言ったが、花蓮にとってはこれ以上ない難題だった。
幼い頃から隼人は完璧だった。成績優秀、容姿端麗、社交の場でも一目置かれる存在。
だが同時に、いつも何かを計算しているような冷ややかな目をしていた。
そして、社交界や経済誌の噂はいつも「女遊びが激しい」で締めくくられる。

「……お断りします」

きっぱりと告げると、兄が眉をわずかに動かした。
「理由は?」

「合いません。あの方とは。性格も、生き方も」

「花蓮」
父の声が低くなる。「これは家の将来を見据えた話だ。お前の好みだけで決められることじゃない」

「でも――」

その瞬間、応接室の扉が開いた。
背の高い影が差し込み、光沢のある黒髪がちらりと揺れた。
神崎隼人がそこに立っていた。
漆黒のスーツに包まれた体は、動きひとつで洗練された威圧感を放つ。
彼の視線が、迷いなく花蓮に向けられた。

「やっと会えたな」

低く抑えた声。
花蓮は一瞬、背筋を伸ばし、そして小さく息を吸った。
隼人はソファに腰を下ろし、父と兄に軽く会釈すると、当たり前のように言った。

「この縁談、進めていただけるんですよね」

「もちろんだ」父が頷く。

「ちょっと待ってください」花蓮は慌てて口を挟んだ。「私、まだ承諾してません」

「承諾する必要はない」
隼人の視線が花蓮を射抜く。「昔から、お前は俺のものだ」

――は?
花蓮の胸の奥で何かが弾けた。

「そんな勝手な言い方、やめてください。私たちはただの幼馴染で――」

「ただの幼馴染?」隼人の口元がわずかに上がる。「そう思ってるのはお前だけだ」

兄が横から口を挟む。「隼人、少し言葉を選べ。花蓮も混乱している」

だが隼人は視線を逸らさない。「混乱なんてしてない。――ただ、認めたくないだけだろ」

花蓮の指先が膝の上で強く握られた。
これ以上この場にいたくない。けれど立ち上がるより先に、背後から低い声が降ってきた。

「奥様になる覚悟は、おありですか」

振り向くと、そこには氷室真希が立っていた。
長い黒髪をきっちりとまとめ、グレーのタイトスーツを着こなすその姿は、冷たく光る刃のようだった。
彼女の瞳には感情の色がほとんどなく、ただ淡々と花蓮を見つめている。

「……あなたは」

「神崎社長の秘書を務めております、氷室です」

その声音は丁寧だが、どこか挑発的だった。
花蓮は目を細め、「覚悟なんて必要ありません。私は結婚するつもりがありませんから」と言い返した。

氷室の口元がわずかに歪む。「それは社長にお伝えしても?」

「どうぞ。……お好きに」

短い沈黙が落ちた。
隼人は椅子の背にもたれ、軽く笑った。「強情だな。でも、俺はそういうところ、嫌いじゃない」

花蓮はその笑みに背筋を冷やし、「……やっぱり無理です」と静かに告げた。

だがその返事は、誰にも受け入れられなかった。
父は「結婚式の日取りを決めよう」と話を進め、兄は黙って花蓮を見つめるだけ。
隼人は終始余裕の笑みを崩さず、氷室は感情の読めない瞳で花蓮を観察していた。

この瞬間、花蓮は理解した。
――この婚約から逃げるのは、簡単じゃない。

けれど、簡単に従うつもりもなかった。