冬の夜気は澄みきって、屋敷の窓から見える星々がひときわ鮮やかだった。
花蓮は廊下を歩きながら、心の奥で鼓動が速まっていくのを感じていた。
――逃げないと決めた。
氷室から聞いた真実が、背中を押してくれていた。

書斎の扉の前で立ち止まり、拳を軽く握る。
中からは紙をめくる音と、低く抑えたペンの走る音だけが聞こえる。
「……入っていいですか」
短い沈黙のあと、「ああ」と低い返事があった。



机に向かっていた隼人が顔を上げ、椅子から立ち上がる。
「どうした」
「話があります」
彼は視線を外さずに頷き、テーブルの向かいの椅子を指し示した。

「……氷室さんから、いろいろ聞きました」
隼人の眉がわずかに動く。
「何を」
「あなたが彼女を信頼している理由、そして……私が“弱点”だということ」

隼人はしばし黙って花蓮を見つめ、それから深く息を吐いた。
「全部、氷室が話したのか」
「はい。でも、それだけじゃ足りません。あなたの口から聞きたい」



花蓮はスクラップブックを机の上に置いた。
古びた革表紙を開くと、あの日の新聞記事が現れる。
『市内で少女誘拐未遂 中学生が救出』

「これ、兄の書庫で見つけました」
隼人の視線が記事に落ち、その黒い瞳がわずかに揺れる。
「……覚えていたのか」
「断片だけ。でも、兄から聞いて全部繋がりました。あの日、私を守ってくれたのはあなた」

隼人はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「忘れていていいと思っていた」
「どうして」
「思い出せば、怖い記憶が蘇る。……お前が怯えるのは嫌だった」



「ずっと、私を守ろうとしてくれていたんですね」
「当たり前だ」
その即答に、胸が熱くなる。
「……でも、距離を置かれると、私は愛されていないと感じます」
「愛している」
静かだが、力のある声。
「だから距離を取った。俺の周りは敵も多い。お前を危険に巻き込みたくなかった」

花蓮は息を呑んだ。
(守るための距離……それが、私を苦しめていた)



「……信じます。でも、もう距離を置くのはやめてほしい」
「わかった」
隼人は立ち上がり、テーブルを回って花蓮の前に立つ。
その手がそっと花蓮の頬に触れる。
「これからは、隣で守る」

花蓮はその手に自分の手を重ねた。
「私も、あなたを信じて隣に立ちます」
二人の視線が絡み、静かな沈黙が訪れる。
やがて隼人は花蓮を抱き寄せ、額を重ねた。

暖炉の火が静かに揺れ、外の冬の冷たさとは無縁の温度が二人を包み込んだ。