パーティから帰宅した夜、屋敷は静まり返っていた。
外は冷たい雨が降り始め、窓ガラスに小さな粒が次々と打ち付けられている。
花蓮はリビングで、濡れたコートを脱ぎもせず、しばらく立ち尽くしていた。

(……あんなふうに嫉妬されるなんて、思わなかった)
隼人の低い声と、真っ直ぐな視線がまだ胸に残っている。
その感触を反芻していると、背後から控えめな声がした。

「奥様、少しお時間をいただけますか」
振り向くと、氷室真希が立っていた。
夜会用のドレスから着替えたのか、シンプルな紺のスーツ姿に戻っている。



応接室に移ると、氷室はカップに温かいハーブティーを注ぎ、花蓮の前に置いた。
「……奥様にお伝えしたいことがあります」
その声音はいつも通り冷静だが、どこかためらいを含んでいる。

花蓮は正面の椅子に腰を下ろし、視線を合わせた。
「なんでしょう」

氷室は一度だけ息を吸い込み、静かに話し始めた。
「私は社長とは、十年以上の付き合いです。ですが……あなたが想像されているような関係ではありません」



「十年前、私の兄が交通事故に遭い、意識不明になったことがあります」
氷室の声が淡く震えた。
「現場に最初に駆けつけたのが社長でした。当時、社長はまだ学生でしたが、救急車が来るまでずっと兄に声をかけ続け、出血を押さえてくれたんです」

花蓮は黙って耳を傾けた。
氷室は続ける。
「兄は奇跡的に一命を取り留めました。……私の家族は皆、社長に恩がある。だから、彼に頼まれればどんな仕事でも引き受けると決めたんです」



「社長と私は、互いに私情を挟まないと約束しています」
氷室はカップの縁に指を添えた。
「それが、私の忠誠の形です。……ですが、その距離が誤解を生むことはわかっています」

花蓮は目を伏せた。
(私が見ていたのは、ほんの一部だけ……)

氷室はふっと表情を和らげた。
「奥様、社長は不器用な方です。大切に思うほど距離を置く。それが、あなたに冷たく見える原因でしょう」
「……それは、私が“弱点”だから?」
「ええ。社長はあなたを守るためなら、評判も誤解も気にしないでしょう」



温かいハーブティーの香りが、わずかに緊張を解いた。
けれど胸の奥は複雑に揺れていた。
(守るための距離……本当に、それだけなの?)

「……もし私が、もっと彼の近くに行こうとしたら?」
氷室はわずかに微笑んだ。
「社長は喜ぶでしょう。ただ、あなたが覚悟を持っていれば」

「覚悟……」
「彼は一度手に入れたものを絶対に手放さない人です」
その言葉は、花蓮の心にゆっくりと沈んでいった。



話を終えると、氷室は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「お話しできてよかった。奥様の誤解が少しでも解ければ」
「……ありがとう」
玄関へ向かう氷室の背中を見送りながら、花蓮は深く息を吐いた。

(彼を信じたい……でも、まだ怖い)

雨はいつの間にか止み、雲間から月明かりが差し込んでいた。
白い光が廊下を照らし、足元の影が長く伸びる。

その影を見つめながら、花蓮は静かに決意した。
――次に彼と向き合うときは、逃げない。