夕暮れの公園は、金色の欠片を拾い集めたみたいに明るくて、けれど一歩ごとに影が長く伸びていった。
ブランコの鎖がきい、と鳴る。橘花蓮はつま先で土を蹴り、空の端に溶けかけた雲を見上げた。今日はお父さまの会食が長引くと言っていたから、迎えは兄のはずだ。秋の風は少し冷たくて、白い息がふっと揺れた。

「――花蓮ちゃん?」

背後から落ち着いた男の声がして、花蓮は振り返る。スーツを着た、会社の人みたいな大人が立っていた。四角い鞄、磨かれた靴、薄く笑う口元。

「お父さんに頼まれてね。急な用事が入って、先に迎えに来てほしいって。車、あっち」

指先が公園の外れの路地を示す。
花蓮は小さく首をかしげた。「……お父さまが?」

「そう。寒いから、行こう。ね?」

掌が差し出される。花蓮は迷った。父はいつも、迎えの人の名前を前もって言う。けれど今日は、会食で忙しそうだった。忘れたのかもしれない。男の肩越しに、沈む陽が赤く濁った。

「……はい」

小さな手を握られる。ひやりと冷たい指だった。
ブランコの影を踏み越えて、公園の外へ。砂利の音が靴裏で砕け、鳥の鳴き声が遠のく。路地は細く、背の高い塀が続く。人気は少なく、風が通ると枯れ葉がざわりと擦れた。

「車はすぐそこだから」

男の歩くペースが少し速くなる。手の力が強まる。花蓮は短い脚で懸命に合わせた。
角を曲がると、路地はさらに狭く、薄暗かった。遠く、車のドアを閉める音が一度鳴る。花蓮の胸が、ふっと小さく縮む。

「……お父さまは?」
「会社で待ってる。さ、早く」

男の声の温度が低くなる。握られた手が、痛い。花蓮は反射的に引こうとしたが、引けない。
立ち止まった瞬間、男の眉間に皺が寄った。

「いい子だね。大きな声は出さない。――わかった?」

花蓮は言葉を失った。喉の奥が熱くなる。足は固まって動かない。
男が腰をかがめ、その肩に手を回そうとした、そのとき――

「花蓮!」

鋭い声が風を切った。
自転車のブレーキが路面を擦る音。飛ぶように降りてきた少年が、二人の間に割って入る。中学生くらいだろうか。制服のネクタイが緩み、黒い髪が光に縁取られている。見慣れた横顔。
神崎隼人だった。

「彼女、うちのグループの令嬢だ。手、離せ」

抑えた低い声。幼いのに、妙に大人びた言い方だった。男が一瞬たじろぐ。
隼人は花蓮の手首を自分の背に隠すように引き寄せた。
男の目が細くなる。「……関係ないだろ」

「関係ある。――花蓮、俺の後ろに」

背中越しに放たれた声に、花蓮は反射的に従った。制服の背中は温かく、洗剤の香りがした。
男が舌打ちし、隼人の肩を押しのけようと腕を伸ばす。隼人はその手首を払う。
瞬間、金属のような冷たい気配。男の鞄の口が開き、ぎらりと何かが覗いた気がした。

「走れ、花蓮。角を曲がって、駄菓子屋まで。電話がある」

「で、でも――」
「大丈夫。すぐ行く」

言葉より先に体が動いていた。花蓮は小さな靴音を重ね、角へ向かって走った。
背後で、鈍い音が二つ重なる。短い呻き。
振り向きたい衝動を噛み殺して、角を曲がる。路地の端に古い駄菓子屋の赤い暖簾が揺れているのが見えた。

「おばちゃん! 電話、貸して――」

店の戸を乱暴に開けると、カラン、と鈴が高く鳴った。
店番の女性が驚いた顔で振り向く。「まあ、花蓮ちゃん? どうしたの」

「ひとが……隼人くんが……」
うまく喋れない。舌が震えた。

「警察、呼ぶわね!」

受話器が持ち上がる音。花蓮は肩で息をしながら、もう一度路地の角へ目をやった。
数秒後、隼人が姿を現した。額から血が一筋、こめかみを伝って落ちている。息を荒くして、けれど目はまっすぐ花蓮を探していた。

「――無事か」

「は、はい……! あのひとは……?」

「逃げた。すぐ、捕まる」

隼人の声は落ち着いていた。けれど影のような痛みが眉間に寄っていて、袖で拭っても血は止まりきらない。
花蓮は足が震え、思わず隼人の袖を掴んだ。生地に滲む自分の涙の色が、にじんで見えた。

「怖かった。こわ、かった……!」

「――怖かったな」

隼人はわずかにしゃがみ、目線を合わせてから、ハンカチを広げて花蓮の頬を拭った。手つきはぎこちなく、それでも丁寧で、指先は少しだけ冷たかった。
花蓮の喉から、ひっ、と短い音が漏れ、堰が切れたように泣き声があふれる。

「泣いていい。ここは安全だ」

「隼人くんの、あたま……血が……」

「これくらい、どうってことない」

強がりの言葉に反して、赤が布へじわりと広がる。
駄菓子屋の奥で救急車のサイレンを呼ぶ声がする。遠くからは人の足音と、誰かが名前を呼ぶ声。
世界が少しずつ音を取り戻す。

「花蓮!」

路地の向こうから、兄の声が飛び込んできた。副社長になる前の、まだ学生らしい顔。父もその後ろにいて、息を切らせていた。
花蓮が「お兄さま」と叫ぶと、兄は駆け寄って抱き寄せた。彼の胸は速く波打っている。

「大丈夫か。怪我は? どこも痛くない?」

首を振る。
父は隼人の額の血に気づき、表情を強張らせた。「君が……助けてくれたのか」

隼人は背筋を伸ばした。少し背伸びをしたみたいに、言葉を整える。

「たまたま通りかかって。花蓮は、無事です」

「恩に着る。神崎家には改めて礼を――」

「礼は、要りません」

間髪入れずに言った隼人に、父は目を見張った。
隼人は、花蓮の方を見た。まっすぐに。
幼いのに、大人よりずっとまっすぐな眼差し。

「俺が絶対、守る」

その言葉は、ひどく静かだった。声を張るより深く、花蓮の胸に落ちた。
彼の掌が一瞬だけ花蓮の肩に触れ、すぐ離れる。
救急車のサイレンが近づき、赤い光が路地の壁に揺れた。



病院の白い天井は、雪みたいに冷たい。
花蓮は検査のベッドの上で、父と兄の話す声をぼんやり聞いていた。隼人は別の処置室にいるらしい。
看護師さんが優しく笑って、「怖かったね」と言った。花蓮は小さく頷いた。
目を閉じると、さっきの光景が一気に押し寄せる――冷たい手、狭い路地、ぎらりと光った何か、赤い光、隼人の声。
心臓が嫌な跳ね方をして、花蓮は息を浅くした。

「もう考えなくていいよ」
兄が頭を撫でる。「怖いことは、忘れたっていい」

その言葉が、ゆっくりと染み込んでいく。
怖いことは、忘れてもいい――。
記憶の端が、柔らかい綿で包まれるみたいに遠のいていく。泣き疲れた瞼は重く、花蓮は浅い眠りに落ちた。



ぱさり、と光沢紙が指の間で鳴った。
現在。ガラス張りの本社ロビーは、午後の光で白く満ちていた。
花蓮はテーブルに広げた経済誌を、どこか居心地悪そうに眺める。表紙の男は冷たいほど整っていて、スーツの肩に無駄がない。
見出しは簡潔だ――〈神崎隼人、最年少でグループ社長に〉。

「……変わらない」

小さく呟く。彼の写真は、どこか遠い。
ページをめくると、記事は彼の辣腕と冷徹さ、そして噂話にまで触れていた。社交界に現れるモデルや女優の名前が並び、記者は「女遊びが激しい」と書く。
胸の奥が、きゅっと縮む。理由はうまく言語化できない。ただ、好きになってはいけない種類の光だ、と本能が告げる。

スマートフォンが震えた。画面には父の名前。通話を受けると、どこか改まった声音が降ってくる。

『花蓮、今夜、家で話がある。――神崎家のことだ』

「……神崎家?」

『隼人君との件だ。正式に。兄さんも同席する』

柔らかな綿で包んだはずの何かが、胸の奥で微かに疼いた。
花蓮は雑誌を閉じ、ガラスの外の街に目をやる。秋の風が木の葉を揺らし、光が舗道に斑をつくる。
遠い午後、駄菓子屋の鈴の音が、ふいに耳の奥で鳴った気がした。

けれど、思い出の輪郭はすぐにほどけて、空気に溶ける。
ただ一つ、彼の声だけが、薄く残った。

――俺が絶対、守る。

花蓮は自分の掌を見つめた。そこには何もない。
なのに、何か温かいものが、ほんの一瞬、触れた気がした。
次の瞬間、彼の噂話が頭を掠め、花蓮は首を振る。冷たい理性が、記憶の余白に蓋をする。

「……関わらない。できれば、一生」

言葉は風に溶けた。
だが、その夜の席で告げられる「正式な話」が、彼女の願いをいとも容易く裏返すことを、花蓮はまだ知らない。
忘れられた誓いが、静かに目を覚まそうとしていることも。