桜散る前に

桜屋の居間は重苦しい空気に包まれていた。

健一郎は座卓の向かいに座る亜矢を、厳しい目つきで見つめている。美奈子は心配そうに二人の間に立ち、何か言おうとしては口を閉ざすことを繰り返していた。

「説明してもらおう」

健一郎の声は低く、怒りを抑えているのが分かった。

「なぜ、あの男と秘密で会っていた?」

亜矢は覚悟を決めて顔を上げた。

「商店街を救いたかったからです」

「商店街を救う?」
健一郎は冷笑した。
「破壊者と手を組んで、どうやって救うというのだ?」

「翔太さんは破壊者なんかじゃありません」

亜矢の声に力が込もった。

「彼は本当に商店街のことを考えてくれています。歴史も、伝統も、全部大切にしたいと思っています」

戯言(たわごと)を言うな」

健一郎は立ち上がった。

「あの男は会社の命令で動いているだけだ。甘い言葉で騙して、結局は全部壊すつもりなのだ」

「違います!」

亜矢も立ち上がった。これまで父に反抗したことのない娘の気迫に、健一郎は一瞬戸惑いを見せた。

「お父さんは翔太さんのプランを見ていません。本当に素晴らしい計画なんです」

「プラン?」

「桜屋の建物をそのまま活かして、和菓子作り体験工房を併設するんです。伝統を守りながら、新しい可能性も広げられます」

亜矢は必死に説明した。

「お客さんにも喜んでもらえるし、収益も上がります。他の店舗も、それぞれの特色を活かした体験プログラムを…」

「黙れ!」

健一郎の怒声が響いた。

「そんな小手先の策で、三百年の歴史が守れると思うのか?」

「小手先の策なんかじゃありません」

亜矢の目に涙が浮かんだ。

「翔太さんは徹夜で設計図を作ってくれました。私たちの気持ちを理解して、本気で考えてくれたんです」

「私たち?」

健一郎の顔がさらに険しくなった。

「まさか、お前もそのプランとやらに関わったのか?」

亜矢は頷いた。

「はい。私もアイデアを出しました」

「なんということだ」

健一郎はよろめくように座り込んだ。

「娘にまで裏切られるとは…」

「裏切りなんかじゃありません!」

亜矢は父の前に膝をついた。

「お父さんのことを思ってやったことです。桜屋を、商店街を本当に救いたくて」

「救う?」
健一郎は苦笑した。
「お前は何も分かっていない」

「何がですか?」

「商店街の真の価値を」

健一郎は立ち上がり、窓から外を見つめた。

「あの街並みは、単なる建物ではない。三百年間、この地で生きてきた人々の魂が込められているのだ」

「それは分かっています」

「分かっていない」
健一郎は振り返った。
「だから、体験工房などという軽薄なことを考える」

「軽薄なんかじゃありません」

亜矢は必死に反論した。

「和菓子作りの技術を多くの人に伝える。それは文化の継承です」

「文化の継承は、弟子から弟子へと受け継がれるものだ。観光客の遊びではない」

父の頑なな姿勢に、亜矢は悲しくなった。

「でも、今のままでは商店街はダメになってしまいます」

「それでも構わん」

健一郎の言葉に、亜矢は愕然とした。

「え?」

「本物を理解しない客など、来なくても良い。我々は我々の道を歩む」

「そんな…それでは桜屋も、商店街も…」

「潰れるならそれまでの話だ」

健一郎の決意は固かった。

「お前の祖父も、曾祖父も、そうやって生きてきた。時代に迎合することなく、職人の誇りを貫いてきたのだ」

亜矢は言葉を失った。父の信念は理解できる。しかし、それでは何も変わらない。

「お父さん」

美奈子がようやく口を開いた。

「亜矢ちゃんの言うことも、一理あるのではないでしょうか」

「美奈子まで何を言う」

「時代は変わっています。私たちも変わらなければ…」

「変わる必要などない」

健一郎は妻を見つめた。

「お前まで、娘の味方をするのか」

「味方とか敵とかではありません」

美奈子は夫に歩み寄った。

「みんな、桜屋のことを思ってのことです」

「違う」
健一郎は首を振った。
「亜矢は騙されているのだ。あの男の甘い言葉に」

「翔太さんは真剣です」

亜矢は涙ながらに訴えた。

「お父さんも、一度話を聞いてみてください。きっと理解していただけます」

「話すことなど何もない」

健一郎は断固として言った。

「そして、お前はもうあの男と会うな」

「でも…」

「でもも何もない。これは命令だ」

父の権威的な態度に、亜矢の心は反発した。

「私はもう子供ではありません」

「何だと?」

「自分で判断して行動します」

亜矢の言葉に、健一郎は怒りを爆発させた。

「生意気を言うな!この家にいる限り、お前は父の言うことを聞くのだ」

「それなら…」

亜矢は震える声で言った。

「家を出ます」

座敷が静まり返った。美奈子が小さく息を呑む音だけが聞こえた。

「何を言っている?」

健一郎は娘の言葉が信じられなかった。

「本気で言っているのか?」

「はい」

亜矢は涙を拭いて立ち上がった。

「翔太さんのプランを実現させたいです。それが本当に商店街のためになると信じています」

「馬鹿者!」

健一郎は亜矢に近づいた。

「目を覚ませ!あの男はお前を利用しているだけだ」

「違います」

「では、なぜ最初に正直に言わなかった?なぜ秘密にしていた?」

その指摘に、亜矢は答えに詰まった。確かに、後ろめたさがあったから秘密にしていたのだ。

「それは…お父さんが反対されると思ったから」

「つまり、最初から騙すつもりだったということだ」

健一郎の論理に、亜矢は追い詰められた。

「そんなつもりでは…」

「もう十分だ」

健一郎は背を向けた。

「好きにしろ。しかし、一度この家を出たら、二度と戻ってくるな」

「健一郎さん!」

美奈子が夫を止めようとした。

「そんなひどいことを…」

「構わない」

亜矢は母を見つめた。

「お母さん、ごめんなさい」

そして、健一郎の背中に向かって言った。

「お父さん、いつか必ず理解していただきます。翔太さんの真心も、私たちの計画も」

健一郎は振り返らなかった。

亜矢は二階の自分の部屋に駆け上がった。涙が止まらなかった。

荷物をまとめながら、大学時代の友人の手紙を思い出した。「いつでも戻っておいで」。今こそ、その言葉に甘えるべきなのかもしれない。

しかし、亜矢の心は決まっていた。東京に逃げるのではなく、金沢に残って翔太と一緒に計画を実現させる。それが本当に商店街のためになると信じている。

荷造りを終えて階下に降りると、美奈子が涙を流しながら立っていた。

「お母さん」

「亜矢ちゃん、本当に行ってしまうの?」

「ごめんなさい」

亜矢は母を抱きしめた。

「でも、これが正しい道だと思うんです」

「分かっているわ」

美奈子は娘の髪を撫でた。

「あなたはもう大人なのね。自分の信念で生きていく」

「お父さんのことをお願いします」

「大丈夫よ。お父さんも、本当はあなたのことを心配しているの」

美奈子は小さな包みを亜矢に渡した。

「お金と、あなたの好きな和菓子よ」

「お母さん…」

「頑張りなさい。でも、無理はしないで」

亜矢は深く頭を下げて、桜屋を後にした。

商店街の向こうに夕日が沈んでいる。明日からは、新しい生活が始まる。

翔太に連絡を取らなければならない。そして、二人で計画を実現させるための第一歩を踏み出さなければならない。

振り返ると、桜屋の窓に健一郎の影が見えた。父もまた、複雑な思いでいるに違いない。

いつか必ず、和解の日が来ることを信じて、亜矢は歩き続けた。