翔太との約束から一週間が過ぎた。
亜矢は表向きは普段通りに和菓子作りの修行を続けながら、密かに街づくりのアイデアを練っていた。父の目を盗んで書き留めたノートには、様々な案が並んでいる。
「和菓子作り体験教室」
「歴史ガイドツアーと連携」
「若者向けカフェスペース」
「伝統工芸ワークショップ」
どれも魅力的だが、現実的に実現可能かどうかは分からない。もっと翔太の意見を聞きたいと思っていた。
「亜矢、手が止まっているぞ」
健一郎の声で、亜矢は現実に引き戻された。
「すみません」
練り切りの成形に集中し直す。最近、父の指摘は以前より優しくなっている気がした。亜矢の努力を認めてくれているのだろう。
「だいぶ上達したな」
健一郎は娘の作品を手に取った。
「形も整ってきたし、生地の練り具合も良い。このペースなら、来年の春には一人前と言えるかもしれん」
「本当ですか?」
「嘘は言わん。職人は正直が第一だ」
父の褒め言葉に、亜矢は素直に嬉しかった。しかし同時に、秘密を抱えている罪悪感も増した。
昼過ぎ、材料の買い出しに出かけた亜矢は、約束の場所で翔太と会った。今日は商店街から離れた、浅野川沿いの静かなカフェだった。
「お疲れさまです」
翔太は既に席を取って待っていた。手には資料が入った鞄を持っている。
「こんにちは。お忙しいのに時間を作っていただいて」
「いえ、僕の方こそ」
二人は奥の席に座った。観光客も少なく、落ち着いて話ができそうだ。
「まず、僕が調べたことからお話しします」
翔太は資料を広げた。
「商店街の建物の構造調査と、法的な制約について調べました」
詳細な図面と資料が並ぶ。翔太の仕事ぶりの丁寧さが伝わってくる。
「驚いたんですが、桜屋の建物はかなり良い状態で保存されています。適切な補強をすれば、十分に現役で使い続けられます」
「そうなんですか?」
「はい。父上は『老朽化』を心配されているようですが、実際は手入れが行き届いていて、構造的にも問題ありません」
その言葉に、亜矢は安堵した。
「他の建物はどうですか?」
「半分くらいは補修で対応可能です。ただし、数軒は建て替えが必要ですね」
翔太は地図を指しながら説明した。
「もし住民の皆さんが協力してくださるなら、段階的な改修計画を立てることができます。全てを一度に壊すのではなく、営業を続けながら少しずつ」
「それは現実的ですね」
「問題は資金です」翔太の表情が曇った。「会社の提案する大規模開発なら潤沢な資金がありますが、住民主導の改修となると…」
「やはり難しいんでしょうか」
「方法はあります」翔太は前向きに言った。「市の補助金制度や、文化財保護の観点からの支援など。ただし、住民の皆さんの同意が絶対条件です」
亜矢は自分のノートを取り出した。
「私も考えてみたんです」
「どのような?」
亜矢は恥ずかしそうにノートを開いた。
「和菓子作り体験教室とか、若い人にも来てもらえるような企画とか…素人の考えですが」
翔太は真剣にノートを読んだ。
「素晴らしいアイデアです!特に体験教室は、観光客にも地元の人にも魅力的ですね」
「本当ですか?」
「はい。実は僕も似たようなことを考えていました。ワークショップ型の店舗展開」
翔太は興奮したように話し続けた。
「各店舗が持つ技術や知識を、体験プログラムとして提供する。茶葉店なら茶道体験、乾物屋なら だし取り教室、桜屋なら和菓子作り」
「面白そうです!」
「観光資源としても価値があるし、地域の文化継承にもなる。そして何より、新しい収益源になります」
二人の会話は弾んだ。互いのアイデアが刺激となり、さらに新しい案が生まれてくる。
「でも」
亜矢は現実に戻った。
「お父さんたちが賛成してくれるでしょうか」
「それが一番の課題ですね」
翔太も表情を引き締めた。
「特に高橋さんは頑なに反対されています」
「父は変化を嫌うんです。でも、それは桜屋を守りたい一心で…」
「分かります。僕も父の気持ちは理解できます」
翔太の声に同情が込もっていた。
「でも、守るためには時には変化も必要だと思うんです。形を変えても、本質を残していく」
「その通りです」
亜矢は頷いた。
「私も文学を通じて学びました。古典の価値を現代に伝えるには、現代の人に分かる形に翻訳する必要がある」
「まさにそれです!」
翔太は手を打った。
「商店街も同じですね。伝統の価値を、現代の人にも分かる形で表現し直す」
二人は互いを見つめた。価値観の共有を確認し合っているようだった。
「亜矢さん」
翔太が真剣な表情で言った。
「はい」
「もしよろしければ、具体的なプランを作成してみませんか?住民説明会で提案できるような」
「でも、私にはそんな技術が…」
「僕が図面や資料は作ります。亜矢さんには、住民の立場からの意見をお聞かせいただければ」
亜矢は迷った。それは完全に父への裏切りになるのではないか。
「お父さんに知られたら…」
「今は秘密にしておきましょう。でも、いずれは理解してもらえると信じています」
翔太の真摯な表情に、亜矢は心を動かされた。
「分かりました。やってみます」
「ありがとうございます」
翔太は安堵の笑顔を見せた。
「来週の今日、同じ時間にまた会えますか?それまでに、僕なりのプランを作ってきます」
「はい」
約束を交わして別れる時、翔太が振り返った。
「亜矢さん、僕たちのしていることは間違っていないと思います」
「私もそう思います」
その言葉を交わして、二人は別々の道を歩んだ。
家に戻る道すがら、亜矢は複雑な気持ちだった。翔太との協力は刺激的で希望に満ちている。しかし、父への罪悪感も日に日に増している。
桜屋に入ると、健一郎が店の前で難しい顔をしていた。
「お父さん、どうしたんですか?」
「さっき、市の職員が来た」
健一郎の声は重い。
「何のご用で?」
「再開発について、個別に話し合いたいということだった」
亜矢の心臓が跳ねた。
「それで?」
「断った。話し合うことなど何もない」
健一郎は店の中に入った。その後ろ姿が、いつもより小さく見えた。
「健一郎さん…」
美奈子が心配そうに夫を見つめている。
「お母さん、お父さんは大丈夫?」
「分からない。でも、一人で全部背負い込もうとしてる」
美奈子の言葉に、亜矢は胸が痛んだ。父は商店街の先頭に立って戦っているつもりだが、その孤独な戦いが報われる日は来るのだろうか。
その夜、亜矢は自分の部屋で翔太からもらった資料を広げていた。商店街の詳細な構造図、法的制約、改修の可能性。全てが具体的で、現実味がある。
もし、このプランがうまくいけば、父の心配も杞憂に終わるかもしれない。桜屋も商店街も、新しい形で生き続けることができる。
しかし、そのためには父を説得しなければならない。そして、それは今の亜矢には不可能に思えた。
机の引き出しから、大学時代の友人からの手紙を取り出す。東京の出版社に就職した友人は、「いつでも戻っておいで」と書いてくれている。
文学への夢を捨てて金沢に戻った亜矢だが、もしかしたら、ここで新しい形の創作ができるかもしれない。商店街の未来を描くという、現実的で意味のある創作を。
窓の外では、商店街の明かりが一つ一つ消えていく。その光の一つ一つに、人々の生活と歴史が込められている。
亜矢は決意を固めた。父を裏切ることになっても、翔太との協力を続けよう。それが、本当に商店街を救う道だと信じて。
遠くで時計の音が鳴った。新しい一日まで、あと数時間だった。
亜矢は表向きは普段通りに和菓子作りの修行を続けながら、密かに街づくりのアイデアを練っていた。父の目を盗んで書き留めたノートには、様々な案が並んでいる。
「和菓子作り体験教室」
「歴史ガイドツアーと連携」
「若者向けカフェスペース」
「伝統工芸ワークショップ」
どれも魅力的だが、現実的に実現可能かどうかは分からない。もっと翔太の意見を聞きたいと思っていた。
「亜矢、手が止まっているぞ」
健一郎の声で、亜矢は現実に引き戻された。
「すみません」
練り切りの成形に集中し直す。最近、父の指摘は以前より優しくなっている気がした。亜矢の努力を認めてくれているのだろう。
「だいぶ上達したな」
健一郎は娘の作品を手に取った。
「形も整ってきたし、生地の練り具合も良い。このペースなら、来年の春には一人前と言えるかもしれん」
「本当ですか?」
「嘘は言わん。職人は正直が第一だ」
父の褒め言葉に、亜矢は素直に嬉しかった。しかし同時に、秘密を抱えている罪悪感も増した。
昼過ぎ、材料の買い出しに出かけた亜矢は、約束の場所で翔太と会った。今日は商店街から離れた、浅野川沿いの静かなカフェだった。
「お疲れさまです」
翔太は既に席を取って待っていた。手には資料が入った鞄を持っている。
「こんにちは。お忙しいのに時間を作っていただいて」
「いえ、僕の方こそ」
二人は奥の席に座った。観光客も少なく、落ち着いて話ができそうだ。
「まず、僕が調べたことからお話しします」
翔太は資料を広げた。
「商店街の建物の構造調査と、法的な制約について調べました」
詳細な図面と資料が並ぶ。翔太の仕事ぶりの丁寧さが伝わってくる。
「驚いたんですが、桜屋の建物はかなり良い状態で保存されています。適切な補強をすれば、十分に現役で使い続けられます」
「そうなんですか?」
「はい。父上は『老朽化』を心配されているようですが、実際は手入れが行き届いていて、構造的にも問題ありません」
その言葉に、亜矢は安堵した。
「他の建物はどうですか?」
「半分くらいは補修で対応可能です。ただし、数軒は建て替えが必要ですね」
翔太は地図を指しながら説明した。
「もし住民の皆さんが協力してくださるなら、段階的な改修計画を立てることができます。全てを一度に壊すのではなく、営業を続けながら少しずつ」
「それは現実的ですね」
「問題は資金です」翔太の表情が曇った。「会社の提案する大規模開発なら潤沢な資金がありますが、住民主導の改修となると…」
「やはり難しいんでしょうか」
「方法はあります」翔太は前向きに言った。「市の補助金制度や、文化財保護の観点からの支援など。ただし、住民の皆さんの同意が絶対条件です」
亜矢は自分のノートを取り出した。
「私も考えてみたんです」
「どのような?」
亜矢は恥ずかしそうにノートを開いた。
「和菓子作り体験教室とか、若い人にも来てもらえるような企画とか…素人の考えですが」
翔太は真剣にノートを読んだ。
「素晴らしいアイデアです!特に体験教室は、観光客にも地元の人にも魅力的ですね」
「本当ですか?」
「はい。実は僕も似たようなことを考えていました。ワークショップ型の店舗展開」
翔太は興奮したように話し続けた。
「各店舗が持つ技術や知識を、体験プログラムとして提供する。茶葉店なら茶道体験、乾物屋なら だし取り教室、桜屋なら和菓子作り」
「面白そうです!」
「観光資源としても価値があるし、地域の文化継承にもなる。そして何より、新しい収益源になります」
二人の会話は弾んだ。互いのアイデアが刺激となり、さらに新しい案が生まれてくる。
「でも」
亜矢は現実に戻った。
「お父さんたちが賛成してくれるでしょうか」
「それが一番の課題ですね」
翔太も表情を引き締めた。
「特に高橋さんは頑なに反対されています」
「父は変化を嫌うんです。でも、それは桜屋を守りたい一心で…」
「分かります。僕も父の気持ちは理解できます」
翔太の声に同情が込もっていた。
「でも、守るためには時には変化も必要だと思うんです。形を変えても、本質を残していく」
「その通りです」
亜矢は頷いた。
「私も文学を通じて学びました。古典の価値を現代に伝えるには、現代の人に分かる形に翻訳する必要がある」
「まさにそれです!」
翔太は手を打った。
「商店街も同じですね。伝統の価値を、現代の人にも分かる形で表現し直す」
二人は互いを見つめた。価値観の共有を確認し合っているようだった。
「亜矢さん」
翔太が真剣な表情で言った。
「はい」
「もしよろしければ、具体的なプランを作成してみませんか?住民説明会で提案できるような」
「でも、私にはそんな技術が…」
「僕が図面や資料は作ります。亜矢さんには、住民の立場からの意見をお聞かせいただければ」
亜矢は迷った。それは完全に父への裏切りになるのではないか。
「お父さんに知られたら…」
「今は秘密にしておきましょう。でも、いずれは理解してもらえると信じています」
翔太の真摯な表情に、亜矢は心を動かされた。
「分かりました。やってみます」
「ありがとうございます」
翔太は安堵の笑顔を見せた。
「来週の今日、同じ時間にまた会えますか?それまでに、僕なりのプランを作ってきます」
「はい」
約束を交わして別れる時、翔太が振り返った。
「亜矢さん、僕たちのしていることは間違っていないと思います」
「私もそう思います」
その言葉を交わして、二人は別々の道を歩んだ。
家に戻る道すがら、亜矢は複雑な気持ちだった。翔太との協力は刺激的で希望に満ちている。しかし、父への罪悪感も日に日に増している。
桜屋に入ると、健一郎が店の前で難しい顔をしていた。
「お父さん、どうしたんですか?」
「さっき、市の職員が来た」
健一郎の声は重い。
「何のご用で?」
「再開発について、個別に話し合いたいということだった」
亜矢の心臓が跳ねた。
「それで?」
「断った。話し合うことなど何もない」
健一郎は店の中に入った。その後ろ姿が、いつもより小さく見えた。
「健一郎さん…」
美奈子が心配そうに夫を見つめている。
「お母さん、お父さんは大丈夫?」
「分からない。でも、一人で全部背負い込もうとしてる」
美奈子の言葉に、亜矢は胸が痛んだ。父は商店街の先頭に立って戦っているつもりだが、その孤独な戦いが報われる日は来るのだろうか。
その夜、亜矢は自分の部屋で翔太からもらった資料を広げていた。商店街の詳細な構造図、法的制約、改修の可能性。全てが具体的で、現実味がある。
もし、このプランがうまくいけば、父の心配も杞憂に終わるかもしれない。桜屋も商店街も、新しい形で生き続けることができる。
しかし、そのためには父を説得しなければならない。そして、それは今の亜矢には不可能に思えた。
机の引き出しから、大学時代の友人からの手紙を取り出す。東京の出版社に就職した友人は、「いつでも戻っておいで」と書いてくれている。
文学への夢を捨てて金沢に戻った亜矢だが、もしかしたら、ここで新しい形の創作ができるかもしれない。商店街の未来を描くという、現実的で意味のある創作を。
窓の外では、商店街の明かりが一つ一つ消えていく。その光の一つ一つに、人々の生活と歴史が込められている。
亜矢は決意を固めた。父を裏切ることになっても、翔太との協力を続けよう。それが、本当に商店街を救う道だと信じて。
遠くで時計の音が鳴った。新しい一日まで、あと数時間だった。



