説明会当日の朝は、どんよりとした曇り空だった。
亜矢は早朝から工房で父の手伝いをしていたが、健一郎の様子がいつもと違うことに気づいていた。普段は黙々と作業に集中する父が、今日は何度も時計を見ては、そわそわと落ち着かない。
「お父さん、大丈夫?」
「何がだ」
健一郎は素っ気なく答えたが、その声には緊張が滲んでいた。
「今日の説明会のこと…」
「心配はいらん。ただの説明会だ」
そう言いながらも、健一郎の手は微かに震えていた。三代続く桜屋を守らなければならないというプレッシャーが、彼の肩に重くのしかかっているのが分かった。
午前中、美奈子は何度も茶を淹れ替えた。夫の緊張を和らげようとする、精一杯の気遣いだった。
「健一郎さん、あまり気負いすぎないで」
「分かっている」
しかし、健一郎の表情は硬いままだった。
昼過ぎ、商店街の他の店主たちが桜屋に集まり始めた。みな、普段着ではなく、よそ行きの服装だった。戦いに臨む意気込みが、その服装からも伝わってくる。
「健一郎さん、準備はいいかい?」
乾物屋の田中さんが声をかけた。
「ああ、いつでも行ける」
「今日は、みんなで結束して臨もう」
茶葉店の山田さんも気合いを入れている。普段は穏やかな人たちが、これほど真剣な表情をするのは珍しかった。
「亜矢ちゃんも一緒に来るの?」
「私も?」
亜矢は父を見た。健一郎は少し考えてから頷いた。
「そうだな。跡継ぎなら、現実を知っておく必要がある」
「でも、険悪な雰囲気になるかもしれないよ」田中さんが心配そうに言った。
「大丈夫です」
亜矢は背筋を伸ばした。
「私も桜屋の一員として、きちんと聞かせていただきます」
説明会の会場は、商店街から歩いて十分ほどの市民センターだった。到着すると、既にかなりの人が集まっていた。商店街の関係者だけでなく、近隣住民や市の職員らしき人たちも見える。
会場の前方には、長机が用意され、そこに数名の男性が座っていた。スーツ姿で、明らかに開発会社の関係者だと分かる。
そして、その中に見覚えのある顔があった。
「西村さん…」
亜矢は小さくつぶやいた。あの日、商店街で出会った男性が、説明者の席に座っている。
彼は資料に目を通しながら、時折会場を見回していた。その視線が亜矢の方に向いた時、一瞬、彼の表情が変わったような気がした。しかし、すぐに資料に目を戻した。
「皆さん、本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」
司会を務める市の職員が挨拶を始めた。
「それでは、金沢商店街地区再開発事業について、東都開発株式会社の方からご説明いただきます」
拍手もないまま、西村が立ち上がった。
「東都開発の西村翔太と申します。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
翔太。亜矢は彼の名前を初めて知った。
「さて、今回の再開発計画についてご説明させていただきます」
翔太は手慣れた様子でプロジェクターを操作し、計画図を映し出した。
「現在の商店街地区は、建物の老朽化が進んでおり、耐震性や防火性に問題があります。また、商業施設としての集客力も年々低下している状況です」
会場がざわめいた。確かに事実だが、それをこんなにはっきりと言われると、店主たちは複雑な表情を見せる。
「そこで、この地区を近代的な複合商業施設として再開発することで、地域の活性化と安全性の向上を図りたいと考えています」
画面に映し出された完成予想図は、確かに美しかった。ガラス張りの近代的な建物に、整備された歩道、緑豊かな広場。
「新しい施設では、既存の店舗の皆様にも、優先的に出店していただく予定です。もちろん、家賃等の条件は現在より優遇されたものを提示させていただきます」
一見すると魅力的な提案だった。しかし、会場の空気は決して和やかではなかった。
「それで」翔太は少し間を置いた。「ご質問やご意見がございましたら、お聞かせください」
しばらく沈黙が続いた。そして、ついに健一郎が立ち上がった。
「質問があります」
健一郎の声は、会場に響いた。翔太は彼の方を見つめた。
「高橋と申します。桜屋という和菓子店を営んでおります」
「はい、承知しております」
翔太は丁寧に答えた。しかし、その表情は緊張しているようにも見えた。
「お聞きします。あなた方は、この商店街の歴史をご存じですか?」
「申し訳ございませんが、詳しくは…」
「三百年です」健一郎の声に力が込もった。「この商店街は、三百年前から金沢の人々の生活を支えてきました。私の店も、三代にわたってこの地で和菓子を作り続けています」
会場が静まり返った。
「その歴史を、あなた方は『老朽化』という一言で片付けるのですか?」
翔太は困惑したような表情を見せた。資料には載っていない、生きた歴史の重みを突きつけられていた。
「我々は…地域の発展を…」
「発展?」
健一郎は声を荒らげた。
「古いものを全て壊して、魂のないビルを建てることが発展ですか?」
他の店主たちも次々と立ち上がり、反対の声を上げ始めた。
「そうだ!」
「我々の生活はどうなる!」
「歴史を大切にしろ!」
会場は騒然となった。翔太は必死に答弁しようとしたが、感情的になった住民たちの声は収まらなかった。
亜矢は席で、その様子をじっと見つめていた。父の怒りは正当なものだと思う。しかし、翔太の困惑した表情も、なぜか心に残った。
彼は本当に、ただの冷酷な開発業者なのだろうか。
説明会は結局、平行線のまま終わった。住民側の反対は明確に示されたが、開発会社側も計画を撤回する様子はなかった。
「今後も、皆様のご理解を得られるよう努力いたします」
翔太の最後の言葉は、空しく会場に響いた。
帰り道、健一郎は無言だった。言うべきことは言った。しかし、戦いはこれからだということも分かっていた。
「お父さん」
亜矢が声をかけた。
「何だ」
「あの人…西村さんって言ったけど、思っていたより普通の人でしたね」
健一郎は立ち止まった。
「騙されるな、亜矢。敵は敵だ。どんなに丁寧な顔をしていても、やろうとしていることは同じだ」
「でも…」
「でも、何だ?」
亜矢は言葉に詰まった。自分でもよく分からない感情があった。翔太への単純な敵意を持てない自分がいる。
「何でもありません」
その夜、桜屋では緊急の店主会議が開かれた。今後の対策について話し合うためだった。
「あいつらは本気だ」
「市も開発会社の味方らしい」
「どうする?弁護士でも雇うか?」
様々な意見が飛び交ったが、決定打はなかった。
亜矢は二階の自分の部屋で、その話し合いの声を聞いていた。そして、なぜか翔太のことを考えていた。
今日の説明会での彼の表情。困惑と、どこか申し訳なさそうな気持ちが見えたような気がした。
本当に彼は、父が言うような悪い人なのだろうか。
外では雨が降り始めていた。嵐の前触れのような、重い雨だった。
亜矢は早朝から工房で父の手伝いをしていたが、健一郎の様子がいつもと違うことに気づいていた。普段は黙々と作業に集中する父が、今日は何度も時計を見ては、そわそわと落ち着かない。
「お父さん、大丈夫?」
「何がだ」
健一郎は素っ気なく答えたが、その声には緊張が滲んでいた。
「今日の説明会のこと…」
「心配はいらん。ただの説明会だ」
そう言いながらも、健一郎の手は微かに震えていた。三代続く桜屋を守らなければならないというプレッシャーが、彼の肩に重くのしかかっているのが分かった。
午前中、美奈子は何度も茶を淹れ替えた。夫の緊張を和らげようとする、精一杯の気遣いだった。
「健一郎さん、あまり気負いすぎないで」
「分かっている」
しかし、健一郎の表情は硬いままだった。
昼過ぎ、商店街の他の店主たちが桜屋に集まり始めた。みな、普段着ではなく、よそ行きの服装だった。戦いに臨む意気込みが、その服装からも伝わってくる。
「健一郎さん、準備はいいかい?」
乾物屋の田中さんが声をかけた。
「ああ、いつでも行ける」
「今日は、みんなで結束して臨もう」
茶葉店の山田さんも気合いを入れている。普段は穏やかな人たちが、これほど真剣な表情をするのは珍しかった。
「亜矢ちゃんも一緒に来るの?」
「私も?」
亜矢は父を見た。健一郎は少し考えてから頷いた。
「そうだな。跡継ぎなら、現実を知っておく必要がある」
「でも、険悪な雰囲気になるかもしれないよ」田中さんが心配そうに言った。
「大丈夫です」
亜矢は背筋を伸ばした。
「私も桜屋の一員として、きちんと聞かせていただきます」
説明会の会場は、商店街から歩いて十分ほどの市民センターだった。到着すると、既にかなりの人が集まっていた。商店街の関係者だけでなく、近隣住民や市の職員らしき人たちも見える。
会場の前方には、長机が用意され、そこに数名の男性が座っていた。スーツ姿で、明らかに開発会社の関係者だと分かる。
そして、その中に見覚えのある顔があった。
「西村さん…」
亜矢は小さくつぶやいた。あの日、商店街で出会った男性が、説明者の席に座っている。
彼は資料に目を通しながら、時折会場を見回していた。その視線が亜矢の方に向いた時、一瞬、彼の表情が変わったような気がした。しかし、すぐに資料に目を戻した。
「皆さん、本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」
司会を務める市の職員が挨拶を始めた。
「それでは、金沢商店街地区再開発事業について、東都開発株式会社の方からご説明いただきます」
拍手もないまま、西村が立ち上がった。
「東都開発の西村翔太と申します。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
翔太。亜矢は彼の名前を初めて知った。
「さて、今回の再開発計画についてご説明させていただきます」
翔太は手慣れた様子でプロジェクターを操作し、計画図を映し出した。
「現在の商店街地区は、建物の老朽化が進んでおり、耐震性や防火性に問題があります。また、商業施設としての集客力も年々低下している状況です」
会場がざわめいた。確かに事実だが、それをこんなにはっきりと言われると、店主たちは複雑な表情を見せる。
「そこで、この地区を近代的な複合商業施設として再開発することで、地域の活性化と安全性の向上を図りたいと考えています」
画面に映し出された完成予想図は、確かに美しかった。ガラス張りの近代的な建物に、整備された歩道、緑豊かな広場。
「新しい施設では、既存の店舗の皆様にも、優先的に出店していただく予定です。もちろん、家賃等の条件は現在より優遇されたものを提示させていただきます」
一見すると魅力的な提案だった。しかし、会場の空気は決して和やかではなかった。
「それで」翔太は少し間を置いた。「ご質問やご意見がございましたら、お聞かせください」
しばらく沈黙が続いた。そして、ついに健一郎が立ち上がった。
「質問があります」
健一郎の声は、会場に響いた。翔太は彼の方を見つめた。
「高橋と申します。桜屋という和菓子店を営んでおります」
「はい、承知しております」
翔太は丁寧に答えた。しかし、その表情は緊張しているようにも見えた。
「お聞きします。あなた方は、この商店街の歴史をご存じですか?」
「申し訳ございませんが、詳しくは…」
「三百年です」健一郎の声に力が込もった。「この商店街は、三百年前から金沢の人々の生活を支えてきました。私の店も、三代にわたってこの地で和菓子を作り続けています」
会場が静まり返った。
「その歴史を、あなた方は『老朽化』という一言で片付けるのですか?」
翔太は困惑したような表情を見せた。資料には載っていない、生きた歴史の重みを突きつけられていた。
「我々は…地域の発展を…」
「発展?」
健一郎は声を荒らげた。
「古いものを全て壊して、魂のないビルを建てることが発展ですか?」
他の店主たちも次々と立ち上がり、反対の声を上げ始めた。
「そうだ!」
「我々の生活はどうなる!」
「歴史を大切にしろ!」
会場は騒然となった。翔太は必死に答弁しようとしたが、感情的になった住民たちの声は収まらなかった。
亜矢は席で、その様子をじっと見つめていた。父の怒りは正当なものだと思う。しかし、翔太の困惑した表情も、なぜか心に残った。
彼は本当に、ただの冷酷な開発業者なのだろうか。
説明会は結局、平行線のまま終わった。住民側の反対は明確に示されたが、開発会社側も計画を撤回する様子はなかった。
「今後も、皆様のご理解を得られるよう努力いたします」
翔太の最後の言葉は、空しく会場に響いた。
帰り道、健一郎は無言だった。言うべきことは言った。しかし、戦いはこれからだということも分かっていた。
「お父さん」
亜矢が声をかけた。
「何だ」
「あの人…西村さんって言ったけど、思っていたより普通の人でしたね」
健一郎は立ち止まった。
「騙されるな、亜矢。敵は敵だ。どんなに丁寧な顔をしていても、やろうとしていることは同じだ」
「でも…」
「でも、何だ?」
亜矢は言葉に詰まった。自分でもよく分からない感情があった。翔太への単純な敵意を持てない自分がいる。
「何でもありません」
その夜、桜屋では緊急の店主会議が開かれた。今後の対策について話し合うためだった。
「あいつらは本気だ」
「市も開発会社の味方らしい」
「どうする?弁護士でも雇うか?」
様々な意見が飛び交ったが、決定打はなかった。
亜矢は二階の自分の部屋で、その話し合いの声を聞いていた。そして、なぜか翔太のことを考えていた。
今日の説明会での彼の表情。困惑と、どこか申し訳なさそうな気持ちが見えたような気がした。
本当に彼は、父が言うような悪い人なのだろうか。
外では雨が降り始めていた。嵐の前触れのような、重い雨だった。



