桜散る前に

亜矢が金沢に戻って一週間が過ぎた。

毎朝五時に起き、父の厳しい指導の下で和菓子作りの基本を学ぶ日々が続いている。小豆の選別、餡の練り方、生地の扱い方。一つ一つの工程が、想像以上に奥深かった。

「まだまだだな」

健一郎は亜矢が作った練り切りを手に取り、厳しい表情で首を振った。

「生地の練りが足りない。それに形が不揃いだ。こんなものを客に出せるか」

「すみません」

何度も同じことを言われているが、亜矢は素直に謝った。プライドを捨てて、一から学び直す覚悟を決めていた。

「もう一度やってみなさい」

美奈子が優しく声をかけた。母は亜矢の努力をよく見ていて、いつも励ましてくれる。

「ありがとう、お母さん」

午後になると、亜矢は商店街を歩いて材料の仕入れに出かけた。各店舗の主人たちに顔を覚えてもらうのも、跡継ぎとしての大切な仕事だった。

「あら、亜矢ちゃん。随分立派になって」

茶葉店の奥さんが笑顔で迎えてくれた。

「お久しぶりです、山田さん」

「お父さんは相変わらず厳しいでしょう?でも、あの人の技術は本物よ。しっかり学んでちょうだい」

そんな温かい言葉をかけられながら商店街を歩いていると、見慣れない人影が目に入った。

スーツ姿の若い男性が、商店街の建物を見上げながら何かをメモしている。手には図面のようなものを持っていた。

「何をしているんだろう」

亜矢は気になって、その男性の後をそっと追った。男性は一軒一軒の店を確認するように歩き、時折写真を撮っている。

古い看板、木造の建物、石畳の道。商店街の歴史を物語るものを、まるで記録しているかのようだった。

男性は桜屋の前で立ち止まった。店の外観をじっと見つめ、また何かをメモしている。

「あの…」

亜矢は思わず声をかけそうになったが、その時男性が振り返った。

整った顔立ちに知的な印象の男性だった。年齢は二十代後半くらいだろうか。亜矢と目が合うと、彼は軽く会釈した。

「すみません、写真を撮らせていただきました」

丁寧な口調だったが、どこか都会的な響きがある。

「あなたは…?」

「西村と申します。この辺りの建物を調査させていただいているんです」

西村。亜矢はその名前をどこかで聞いたような気がしたが、思い出せなかった。

「調査って、もしかして再開発の?」

西村の表情が一瞬曇った。

「ええ、まあ…そのような関係です」

曖昧な答えだったが、亜矢には十分だった。この人が、父が忌み嫌う再開発を推進する側の人間なのだ。

「失礼します」

西村は再び会釈すると、足早にその場を離れていった。

亜矢はしばらくその背中を見つめていた。思っていたより若く、丁寧な印象の人だった。てっきり強引で傲慢な人物を想像していたが、実際は違っていた。

しかし、それでも敵は敵だ。桜屋と商店街の伝統を破壊しようとしている相手に変わりはない。

家に戻ると、健一郎が工房で一人黙々と作業をしていた。

「お父さん、さっき変な人がいました」

「変な人?」

「スーツを着た男の人で、商店街の建物を調査してるって…」

健一郎の手が止まった。顔に険しい表情が浮かぶ。

「ついに来たか」

「ついに?」

「再開発の連中だ。本格的に動き出すつもりらしい」

健一郎は作業台に拳を叩きつけた。

「許せん。この街の歴史も伝統も何も知らない連中が、勝手に壊して儲けようとしている」

「でも、その人は思ったより普通の人でした。丁寧な感じで…」

「騙されるな」
健一郎は厳しい声で言った。
「表面は丁寧でも、やることは破壊だ。我々の生活を奪う気でいるんだ」

その夜、商店街の店主たちが桜屋に集まった。緊急会議だった。

「ついに調査員が来たらしいな」

「うちの前でも写真を撮ってたよ」

「どうする?このまま黙って見てるわけにはいかないだろう」

店主たちの声は不安と怒りに満ちていた。

「でも、相手は大手の会社だ。個人で太刀打ちできるのか?」

「だからといって、黙って立ち退くわけにはいかない」

健一郎は腕を組んで黙って話を聞いていたが、やがて重い口を開いた。

「来週、説明会があるらしい」

一同がざわめいた。

「説明会?」

「市の担当者から連絡があった。再開発計画の詳細を説明するという」

「それで、どうするんだ?」

「当然、参加する」
健一郎の声は決然としていた。
「そして、はっきりと反対の意思を示す」

亜矢は二階から、その会話を聞いていた。父の意志は固い。しかし、相手も本気のようだ。

果たして、この小さな商店街が大きな開発会社に立ち向かえるのだろうか。

そして、昼間出会った西村という男性は、どのような立場の人なのだろうか。

窓の外に目を向けると、商店街の古い街灯が暖かな光を放っていた。しかし、その光がいつまで続くのか、亜矢には分からなかった。

変化の足音が、確実に近づいてきている。

翌日の夕方、亜矢は一人で近所の兼六園を散歩していた。修行の疲れを癒し、心を整理するためだった。

園内の桜はほぼ散り、新緑の季節に移り変わろうとしている。季節は確実に進んでいるのに、自分の心はまだ迷いの中にあった。

ことじ灯籠の近くのベンチに座り、静かな池を見つめていると、見覚えのある人影が目に入った。

昼間出会った西村という男性が、一人で園内を歩いている。スーツではなく、カジュアルな服装だった。

彼は霞ヶ池のほとりで立ち止まり、水面を見つめている。その横顔には、どこか物思いにふけるような表情があった。

仕事を離れた時の彼は、昼間見た印象とは違っていた。より人間らしく、親しみやすい雰囲気があった。

亜矢は立ち上がりかけたが、すぐに座り直した。敵側の人間と親しくなるわけにはいかない。

しかし、心のどこかで、もう少し彼のことを知りたいという気持ちがあった。

本当に彼は、父が言うような冷酷な破壊者なのだろうか。

夕陽が池の水面を染める中、二人は互いの存在に気づかないまま、同じ風景を見つめていた。