桜散る前に

三年の約束まで、あと一週間となった。

翔太は最後の準備に追われていた。商店街の店主たちとの打ち合わせ、会場の装飾、そして何より、プロポーズの言葉の練習。

「大丈夫、きっと上手くいく」

鏡の前で自分に言い聞かせる翔太の姿は、初々しくもあり、頼もしくもあった。

一方、亜矢は翔太の様子がいつもと違うことに気づいていた。

「翔太さん、最近とても忙しそうですね」

ある朝、いつものように弁当を渡しながら亜矢が言った。

「ちょっと大切なプロジェクトがあるんです」

翔太は照れ笑いを浮かべた。

「人生で一番大切なプロジェクトかもしれません」

「人生で一番?」

亜矢の目が輝いた。

「はい。でも、まだ秘密です」

翔太はいたずらっぽく微笑んだ。

健一郎は二人のやりとりを見ながら、内心では翔太の計画を応援していた。

「翔太、頑張れよ」

心の中でつぶやきながら、工房での作業に集中した。

そして、運命の日がついに訪れた。

その日は快晴で、春の訪れを感じさせる暖かな日だった。桜のつぼみも膨らみ始めている。

「今日は良い天気ですね」

朝、亜矢が翔太に声をかけた。

「はい。とても良い日です」

翔太の声には、特別な響きがあった。

「今日の夕方、お時間ありますか?」

「はい、大丈夫です」

「それでは、六時に商店街の中央広場でお待ちしています」

翔太の真剣な表情に、亜矢の心臓が跳ねた。

「何か特別なことが?」

「はい。とても特別なことです」

翔太は深く頷いた。

「楽しみにしていてください」

その日の午後、商店街は密かに準備に追われていた。

田中夫妻は中央広場に美しい花を飾り、山田夫妻は特別な茶菓子を用意した。書店の斉藤さんは音響設備を、薬局の森さんは照明を担当した。

「みんな、ありがとうございます」

翔太は店主たちに深く頭を下げた。

「何を言ってる。家族のためじゃないか」

田中のおじさんが笑った。

「亜矢ちゃんが喜んでくれれば、それで十分よ」

山田のおばさんも嬉しそうだった。

午後五時、翔太は最後の確認をしていた。

指輪、花束、そして心を込めて書いたメッセージカード。すべてが完璧に準備されている。

「お母様、見守っていてください」

翔太は美奈子の写真に向かって祈った。

午後六時少し前、亜矢は約束の場所に向かった。

いつもより少しおしゃれをして、淡いピンクのワンピースを着ていた。

「翔太さんは何を準備してくださったんだろう」

期待と緊張で胸が高鳴っていた。

中央広場に近づくと、いつもと雰囲気が違うことに気づいた。

美しい花々が飾られ、柔らかな照明が幻想的な雰囲気を作り出している。

「あら、素敵…」

亜矢が感嘆していると、翔太が現れた。

いつものカジュアルな服装ではなく、黒いスーツに身を包んでいた。

「亜矢さん、お待たせしました」

「翔太さん…これは?」

亜矢は周囲の装飾に目を見張った。

「亜矢さんのためです」

翔太は緊張した面持ちで言った。

「僕には、どうしても伝えたいことがあるんです」

その時、商店街の店主たちが次々と現れた。みんな正装をして、温かい笑顔を浮かべている。

「みなさん…」

亜矢は驚いた。

「今日は特別な日だからね」

山田のおばさんが嬉しそうに言った。

翔太は広場の中央で、亜矢の手を取った。

「亜矢さん」

翔太の声は震えていたが、決意に満ちていた。

「三年前、僕はお父様と約束しました。三年で立派な男になって、改めて求婚すると」

亜矢の目に涙が浮かんだ。

「この三年間、僕は亜矢さんのことを想い続けてきました」

翔太は胸ポケットから小さな箱を取り出した。

「東京にいる間も、辛い時も、嬉しい時も、いつも亜矢さんがそばにいてくれました」

箱を開けると、美しい桜の花をモチーフにした指輪が現れた。

「亜矢さん、僕と結婚してください」

翔太がひざまずいた瞬間、亜矢の涙が溢れた。

「翔太さん…」

「僕は、亜矢さんを一生愛し続けます。どんな困難があっても、二人で乗り越えていきます」

翔太の真剣な眼差しに、亜矢の心は震えた。

「そして、この商店街を、みなさんを、ずっと大切にしていきます」

周囲の店主たちも、感動で目を潤ませていた。

「亜矢さん、返事をお聞かせください」

翔太は震える手で指輪を差し出した。

亜矢は涙を拭いながら、深く頷いた。

「はい」

「本当ですか?」

翔太の顔が歓喜に輝いた。

「はい。翔太さんと結婚したいです」

翔太は立ち上がり、亜矢の左手薬指に指輪を嵌めた。

「ありがとうございます」

翔太は亜矢を抱きしめた。

その瞬間、商店街に拍手と歓声が響いた。

「おめでとう!」

「やったね!」

店主たちの祝福の声が、夕暮れの空に響いた。

健一郎も工房から出てきて、二人の姿を見守っていた。

「よくやった」

健一郎の目にも涙が浮かんでいた。

「美奈子、見てるか?」

心の中で妻に語りかけた。

「立派な男になって帰ってきたぞ」

その夜、桜屋では家族だけの小さな祝宴が開かれた。

「改めまして」

翔太は正座して、健一郎に向かった。

「亜矢さんと結婚させていただきたく、お願い申し上げます」

「うむ」

健一郎は厳粛に頷いた。

「三年の約束を見事に果たした。立派な男になったな」

「ありがとうございます」

翔太は深く頭を下げた。

「亜矢を頼む」

健一郎の言葉に、翔太は力強く応えた。

「必ずお守りします」

亜矢は両手を膝の上に置き、深々と頭を下げた。

「お父さん、ありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとう」

健一郎は娘の頭を優しく撫でた。

「お前たちなら、きっと幸せになれる」

その夜、翔太と亜矢は兼六園を散歩した。

「指輪、とても美しいです」

亜矢は左手を見つめながら言った。

「気に入っていただけて良かったです」

翔太は安堵した。

「桜の花のデザイン、素敵ですね」

「亜矢さんといえば桜ですから」

翔太の言葉に、亜矢は微笑んだ。

「私たちの物語も、桜とともに始まりましたものね」

二人はことじ灯籠のベンチに座った。

「翔太さん」

「はい?」

「この三年間、本当にありがとうございました」

亜矢の声には深い感謝が込もっていた。

「辛いこともたくさんありました。でも、翔太さんがいてくれたから乗り越えられました」

「僕もです」

翔太は亜矢の手を握った。

「亜矢さんがいてくれたから、頑張ることができました」

池の水面に月が映っている。

「これからは、ずっと一緒ですね」

亜矢の言葉に、翔太は深く頷いた。

「はい。永遠に一緒です」

二人は静かにキスを交わした。

長い試練の時を経て、ついに結ばれた愛。

桜の季節が近づく中、新しい人生が始まろうとしていた。

美奈子も、きっと天国から見守ってくれているだろう。