大型チェーン店の開店まで残り一か月となった頃、商店街の危機感はピークに達していた。
連日の客足減少で、いくつかの店舗は既に営業時間を短縮せざるを得ない状況だった。桜屋も例外ではなく、体験工房の予約は激減していた。
「このままでは、本当にダメになってしまう」
亜矢は一人で帳簿を見ながらため息をついた。売上は前年同月比で四割減。このペースでは年内の経営継続も危うい状況だった。
「亜矢ちゃん」
山田のおばさんが心配そうに顔を出した。
「翔太さんの支援の件、やっぱりお父さんは首を縦に振らないの?」
「はい…どんなに説明しても、聞く耳を持ってくれません」
健一郎の頑固さは相変わらずだった。
「大手企業の世話になるくらいなら、店を畳む」
そう言って、翔太からの詳細な提案書にも目を通そうとしない。
その夜、亜矢は母の仏壇の前で一人座っていた。
「お母さん、どうしたらいいでしょう?」
美奈子の遺影が、優しく微笑みかけているように見えた。
「翔太さんは東京で頑張っているのに、私は何もできません」
亜矢は涙を流した。強がり続けることに疲れ果てていた。
その時、電話が鳴った。翔太からだった。
「亜矢さん、今日はお疲れさまでした」
いつものように明るく答えようとしたが、今夜は声が出なかった。
「亜矢さん?どうしました?」
「翔太さん…」
ついに亜矢の心の堤防が決壊した。
「もう…もう無理です」
「え?」
「お父さんは翔太さんの提案を聞いてくれません。商店街はどんどん悪くなっています。私一人では何もできません」
亜矢は電話口で泣き崩れた。
「亜矢さん…」
翔太の声も震えていた。愛する人がこんなに苦しんでいるのに、そばにいてあげられない自分の無力さを感じた。
「すみません、弱音を吐いて」
「謝らないでください」
翔太は優しく言った。
「一人で全部背負う必要はありません」
「でも、翔太さんは東京で大切な仕事をしているのに」
「亜矢さんより大切な仕事なんてありません」
翔太の言葉に、亜矢の心は少し軽くなった。
「今度の週末、金沢に帰ります」
「でも、お仕事が…」
「大丈夫です。直接お父様と話してみます」
翔太の決意は固かった。
週末、翔太は予定通り金沢に帰ってきた。
久しぶりに会った亜矢は、やつれて見えた。翔太の胸が痛んだ。
「お疲れさまでした」
「亜矢さんこそ…本当にありがとうございます」
翔太は亜矢を抱きしめた。
「もう一人で抱え込まないでください」
桜屋では、健一郎が工房で黙々と作業をしていた。
「お父さん、翔太さんが帰ってきました」
健一郎は手を止めずに答えた。
「そうか」
翔太は工房に入り、深く頭を下げた。
「お疲れさまです」
「うむ」
健一郎は素っ気なく答えた。
「お父さん、話があります」
亜矢が切り出した。
「商店街の支援の件です」
「その話はもう終わりだ」
健一郎は頑なに拒否した。
「でも、このままでは本当に桜屋がなくなってしまいます」
「それでも構わん」
健一郎の言葉に、翔太は驚いた。
「高橋さん、なぜそこまで支援を拒まれるのですか?」
「プライドだ」
健一郎は振り返った。
「三代続いた桜屋を、他人の力で存続させるなど、先祖に申し訳が立たん」
「でも、お母様は何とおっしゃるでしょう?」
翔太の言葉に、健一郎の表情が変わった。
「美奈子は…」
「お母様は最後に言われました。『この街を守ってください』と」
翔太は真剣に訴えた。
「街を守るためなら、プライドも必要ないのではないでしょうか?」
健一郎は黙り込んだ。
「それに」翔太は続けた。「これは支援ではなく、投資です」
「投資?」
「はい。商店街の価値を認めた上での、対等なビジネスパートナーシップです」
翔太は改めて提案書を取り出した。
「詳細をご覧ください」
健一郎は渋々資料に目を通し始めた。
翔太の提案は確かに一方的な支援ではなく、相互利益を追求するものだった。
「なるほど…よく考えられている」
健一郎の表情が少し和らいだ。
「でも、お前の立場は大丈夫なのか?」
「大丈夫です。これは僕の正式な業務の一環です」
「そうか…」
健一郎は長い間考え込んだ。
「分かった。条件付きで受け入れよう」
亜矢の顔が明るくなった。
「条件とは?」
「お前が金沢に戻ってくること」
翔太は困った。
「それは…まだ約束の期限まで半年あります」
「半年後では遅すぎる。今すぐ必要だ」
健一郎の要求は厳しいものだった。
「でも、今辞めては約束を破ることに…」
「約束より現実が大切だ」
健一郎は翔太を見据えた。
「お前が本当に必要なのは今だ」
翔太は迷った。確かに、商店街の危機は待ったなしだった。しかし、約束を破ることへの躊躇もあった。
「翔太さん」
亜矢が口を開いた。
「お父さんの言う通りです。今、翔太さんが必要です」
「でも…」
「約束は気にしないでください」
亜矢は微笑んだ。
「翔太さんが帰ってきてくれるなら、それで十分です」
翔太は二人の気持ちを受け止めた。
「分かりました。会社と交渉してみます」
翌日、翔太は東京の会社に電話をかけた。
「西村です。実は、金沢のプロジェクトの件で相談があります」
上司は翔太の申し出を快く受け入れてくれた。
「西村さんの判断なら間違いありません。金沢支社を設立して、そちらの責任者になってください」
思わぬ好条件だった。
「ありがとうございます」
その夜、翔太は良い報告を持って亜矢に連絡した。
「金沢に支社を作って、僕が責任者として戻ることになりました」
「本当ですか?」
亜矢の声は喜びに満ちていた。
「はい。来月から正式に金沢勤務です」
「良かった…本当に良かった」
亜矢は電話口で泣いていた。今度は嬉しさの涙だった。
商店街の危機は完全に去ったわけではないが、希望の光が見えてきた。
翔太の帰還、会社の支援、そして何より家族の絆の深まり。
すべてが良い方向に向かい始めていた。
「お母さん」
亜矢は仏壇に向かって報告した。
「翔太さんが帰ってきます。きっとお母さんが守ってくださったのですね」
美奈子の遺影が、安らかに微笑んでいるように見えた。
長い試練の時を経て、家族はより強い絆で結ばれていた。
そして、真の幸せへの道筋が、ようやく見えてきた。
連日の客足減少で、いくつかの店舗は既に営業時間を短縮せざるを得ない状況だった。桜屋も例外ではなく、体験工房の予約は激減していた。
「このままでは、本当にダメになってしまう」
亜矢は一人で帳簿を見ながらため息をついた。売上は前年同月比で四割減。このペースでは年内の経営継続も危うい状況だった。
「亜矢ちゃん」
山田のおばさんが心配そうに顔を出した。
「翔太さんの支援の件、やっぱりお父さんは首を縦に振らないの?」
「はい…どんなに説明しても、聞く耳を持ってくれません」
健一郎の頑固さは相変わらずだった。
「大手企業の世話になるくらいなら、店を畳む」
そう言って、翔太からの詳細な提案書にも目を通そうとしない。
その夜、亜矢は母の仏壇の前で一人座っていた。
「お母さん、どうしたらいいでしょう?」
美奈子の遺影が、優しく微笑みかけているように見えた。
「翔太さんは東京で頑張っているのに、私は何もできません」
亜矢は涙を流した。強がり続けることに疲れ果てていた。
その時、電話が鳴った。翔太からだった。
「亜矢さん、今日はお疲れさまでした」
いつものように明るく答えようとしたが、今夜は声が出なかった。
「亜矢さん?どうしました?」
「翔太さん…」
ついに亜矢の心の堤防が決壊した。
「もう…もう無理です」
「え?」
「お父さんは翔太さんの提案を聞いてくれません。商店街はどんどん悪くなっています。私一人では何もできません」
亜矢は電話口で泣き崩れた。
「亜矢さん…」
翔太の声も震えていた。愛する人がこんなに苦しんでいるのに、そばにいてあげられない自分の無力さを感じた。
「すみません、弱音を吐いて」
「謝らないでください」
翔太は優しく言った。
「一人で全部背負う必要はありません」
「でも、翔太さんは東京で大切な仕事をしているのに」
「亜矢さんより大切な仕事なんてありません」
翔太の言葉に、亜矢の心は少し軽くなった。
「今度の週末、金沢に帰ります」
「でも、お仕事が…」
「大丈夫です。直接お父様と話してみます」
翔太の決意は固かった。
週末、翔太は予定通り金沢に帰ってきた。
久しぶりに会った亜矢は、やつれて見えた。翔太の胸が痛んだ。
「お疲れさまでした」
「亜矢さんこそ…本当にありがとうございます」
翔太は亜矢を抱きしめた。
「もう一人で抱え込まないでください」
桜屋では、健一郎が工房で黙々と作業をしていた。
「お父さん、翔太さんが帰ってきました」
健一郎は手を止めずに答えた。
「そうか」
翔太は工房に入り、深く頭を下げた。
「お疲れさまです」
「うむ」
健一郎は素っ気なく答えた。
「お父さん、話があります」
亜矢が切り出した。
「商店街の支援の件です」
「その話はもう終わりだ」
健一郎は頑なに拒否した。
「でも、このままでは本当に桜屋がなくなってしまいます」
「それでも構わん」
健一郎の言葉に、翔太は驚いた。
「高橋さん、なぜそこまで支援を拒まれるのですか?」
「プライドだ」
健一郎は振り返った。
「三代続いた桜屋を、他人の力で存続させるなど、先祖に申し訳が立たん」
「でも、お母様は何とおっしゃるでしょう?」
翔太の言葉に、健一郎の表情が変わった。
「美奈子は…」
「お母様は最後に言われました。『この街を守ってください』と」
翔太は真剣に訴えた。
「街を守るためなら、プライドも必要ないのではないでしょうか?」
健一郎は黙り込んだ。
「それに」翔太は続けた。「これは支援ではなく、投資です」
「投資?」
「はい。商店街の価値を認めた上での、対等なビジネスパートナーシップです」
翔太は改めて提案書を取り出した。
「詳細をご覧ください」
健一郎は渋々資料に目を通し始めた。
翔太の提案は確かに一方的な支援ではなく、相互利益を追求するものだった。
「なるほど…よく考えられている」
健一郎の表情が少し和らいだ。
「でも、お前の立場は大丈夫なのか?」
「大丈夫です。これは僕の正式な業務の一環です」
「そうか…」
健一郎は長い間考え込んだ。
「分かった。条件付きで受け入れよう」
亜矢の顔が明るくなった。
「条件とは?」
「お前が金沢に戻ってくること」
翔太は困った。
「それは…まだ約束の期限まで半年あります」
「半年後では遅すぎる。今すぐ必要だ」
健一郎の要求は厳しいものだった。
「でも、今辞めては約束を破ることに…」
「約束より現実が大切だ」
健一郎は翔太を見据えた。
「お前が本当に必要なのは今だ」
翔太は迷った。確かに、商店街の危機は待ったなしだった。しかし、約束を破ることへの躊躇もあった。
「翔太さん」
亜矢が口を開いた。
「お父さんの言う通りです。今、翔太さんが必要です」
「でも…」
「約束は気にしないでください」
亜矢は微笑んだ。
「翔太さんが帰ってきてくれるなら、それで十分です」
翔太は二人の気持ちを受け止めた。
「分かりました。会社と交渉してみます」
翌日、翔太は東京の会社に電話をかけた。
「西村です。実は、金沢のプロジェクトの件で相談があります」
上司は翔太の申し出を快く受け入れてくれた。
「西村さんの判断なら間違いありません。金沢支社を設立して、そちらの責任者になってください」
思わぬ好条件だった。
「ありがとうございます」
その夜、翔太は良い報告を持って亜矢に連絡した。
「金沢に支社を作って、僕が責任者として戻ることになりました」
「本当ですか?」
亜矢の声は喜びに満ちていた。
「はい。来月から正式に金沢勤務です」
「良かった…本当に良かった」
亜矢は電話口で泣いていた。今度は嬉しさの涙だった。
商店街の危機は完全に去ったわけではないが、希望の光が見えてきた。
翔太の帰還、会社の支援、そして何より家族の絆の深まり。
すべてが良い方向に向かい始めていた。
「お母さん」
亜矢は仏壇に向かって報告した。
「翔太さんが帰ってきます。きっとお母さんが守ってくださったのですね」
美奈子の遺影が、安らかに微笑んでいるように見えた。
長い試練の時を経て、家族はより強い絆で結ばれていた。
そして、真の幸せへの道筋が、ようやく見えてきた。



